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建仁寺〜松原通り〜六道珍皇寺

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花見小路通 建仁寺 北門 花見小路通 建仁寺 北門 

建仁寺は建仁2年(1202年)将軍源頼家が寺域を寄進し栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して建立されました。元号を寺号とし、山号を東山(とうざん)と称します。
創建時は真言・止観の二院を構え天台・密教・禅の三宗兼学の道場として当時の情勢に対応していました。
その後、寛元・康元年間の火災等で境内は荒廃するも、正嘉元年(1258年)東福寺開山円爾弁円(えんにべんえん)が当山に入寺し境内を復興、禅も盛んとなりました。
正元元年(1259年)宋の禅僧、建長寺開山蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が入寺してからは禅の作法、規矩(禅院の規則)が厳格に行われ純粋に禅の道場となりました。
やがて室町幕府により中国の制度にならった京都五山が制定され、その第三位として厚い保護を受け大いに栄えますが、戦乱と幕府の衰退により再び荒廃します。
ようやく天正年間(1573−1592年)に安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が方丈や仏殿を移築しその復興が始まり、徳川幕府の保護のもと堂塔が再建修築され制度や学問が整備されます。
明治に入り政府の宗教政策等により臨済宗建仁寺派としての分派独立、建仁寺はその大本山となります。
また廃仏毀釈、神仏分離の法難により塔頭の統廃合が行われ、余った土地を政府に上納、境内が半分近く縮小され現在にいたります。
花見小路通 建仁寺 本坊前 境内図 花見小路通 建仁寺 本坊前 境内図 

中央上から花見小路通が南下し、北門を通って右に曲がり、本坊前から南下、突き当りで左折して八坂通を経て六道珍皇寺に向かう。
建仁寺 法堂 建仁寺 法堂 
建仁寺 法堂 建仁寺 法堂 

明和2年(1765年)上棟。
仏殿兼用の「拈華堂(ねんげどう)」。五間四間・一重・裳階付の堂々とした禅宗様仏殿建築。正面須弥壇には本尊釈迦如来座像と脇侍迦葉尊者・阿難尊者が祀られてる。また、その天井には平成14年(2002年)創建800年を記念して「小泉淳作画伯」筆の双龍が描かれた。
建仁寺 栄西禅師 茶碑 建仁寺 栄西禅師 茶碑 

栄西禅師 茶碑の前で欧米人の学生グループが茶碑を前にしてかなり長い間説明、質疑応答をしていた。いなくなったら写真を、と思っていたが退く様子はなく、諦めた。
建仁寺 参道を南下 建仁寺 参道を南下 
建仁寺 開山堂 千光祖師栄西禅師入定塔 建仁寺 開山堂 千光祖師栄西禅師入定塔 

旧名護国院、古くは興禅護国院といい、開山栄西禅師の入定塔(墓所)。苔むした庭に開山お手植えの菩提樹が今も茂っている。
建仁寺 浴室 建仁寺 浴室 

浴室

 禅院七堂伽藍の一つに数えられ,禅堂・食堂とともに三黙堂の一つとして厳しい作法が定められ重要な修行の場でもある。
 現浴室は、寛永五年(一六二八)三江紹益禅師が建立したものと伝えられている。
 桁行五間、梁行四間、切妻造、前方左右に一間の裳層が付く。西面し妻入りで,逆T字形の平面をもつ。
 入口中央二間は敷瓦、上部に浴室本尊「跋陀婆羅菩薩」を奉る。その左右を板間とし待合とする。
 中央部は奥行二間の浴室で、全休を板敷とし、その中央後ろ寄りに小風呂を据えている。湯気で体を温める蒸し風呂である。
 後部は土間て吹き抜けとし,竈を築き火炊場となっている。
建仁寺 浴室 建仁寺 浴室 
建仁寺 六道珍皇寺 六道まつりの案内 建仁寺 六道珍皇寺 六道まつりの案内 

浴室の先で参道は突き当りになっており、そこに臨済宗建仁寺派に属する六道珍皇寺の看板が建てられている。建仁寺から八坂通に出て左折すると六道珍皇寺へ向かい、右折すると塔頭の摩利支天堂がある。
 建仁寺から八坂通に進む 建仁寺から八坂通に進む 

参道突き当りの六道まつりの看板で左折し、すぐ右折すると建仁寺の出口となる。
突き当りで左折し、八坂通へ進む 突き当りで左折し、八坂通へ進む 

正面の建物はホテル ザ セレスティン京都祇園である。
八坂通 ホテル ザ セレスティン京都祇園の角で右折 八坂通 ホテル ザ セレスティン京都祇園の角で右折 

八坂通に入ってすぐにホテル ザ セレスティン京都祇園の角で右折する。

電柱の道標には右折すると六波羅蜜寺(徒歩4分)、直進すると八坂の塔(法観寺)(徒歩17分)と記されている。
八坂通 ホテル ザ セレスティン京都祇園の角で右折 ホテル ザ セレスティン京都祇園沿いに南下 
突き当りで左折、松原通を東進 突き当りで左折、松原通を東進 

長い参道を真っ直ぐに歩く建仁寺と違い、少し歩いては曲がるを繰り返して変哲もない商店が続く松原通に出る。

六波羅蜜寺は突き当りで右折してすぐの周辺観光案内図のある門で左折、六原本通を南下するとある。
松原通を東進 六道珍皇寺 山門 松原通を東進 六道珍皇寺 山門 

左には小野篁卿旧跡、六道の辻の石柱がある。
松原通を東進 六道珍皇寺 山門 松原通を東進 六道珍皇寺 山門 

六道珍皇寺の解説の高札と、謡曲 熊野 清水詣の石碑がある。
松原通を東進 六道珍皇寺 山門 松原通を東進 六道珍皇寺 山門 

謡曲 熊野 清水詣より

愛宕の寺も
うち過ぎぬ 六道の
辻とかや げに恐ろしや
このみちハ めい土に
かよふ なるものを
松原通を東進 六道珍皇寺 山門 松原通を東進 六道珍皇寺 山門 

六道珍皇寺

 大椿山と号し、臨済宗建仁寺派に属する。
 創建は平安時代に遡リ、かつては真言宗東寺に属していた。
 中世期に兵禍によって荒廃したため、建仁寺僧のも聞溪良聰により南北朝時代に建仁寺所属となり、その再興がはかられ現在に至る。
 寺域は、古来からの葬送の地、鳥辺野の麓で入口付近に当たることから、冥界との境界「六道の辻」と称され、お盆に帰る精霊は必ずここを通るともされた。
 「六道」とは、仏教でぃう一切の衆生が生前の業因によって赴くとされる地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六種の迷界をいう。
 毎年、お盆にご先祖の精霊を迎えるため八月七日から十日の四日間は、「六道まいり」の行事が行われ大勢の参詣者が、冥土にも響くという梵鐘(迎え鐘)を撞き、亡者をこの世に呼び寄せる。
 本尊は、平安時代前期の薬師如来坐像(重文)で、そのほか間魔堂には木造の閻魔大王坐像と冥官伝説をもつ小野篁の立像が祀られている。また、本堂裏庭には、夜毎に閻魔庁に出向くときに使ったと伝わる「小野篁公冥途通いの井戸」もある。
松原通を東進 六道珍皇寺 山門 松原通を東進 六道珍皇寺 山門 
六道珍皇寺 本堂、閻魔・篁堂、薬師堂 六道珍皇寺 本堂、閻魔・篁堂、薬師堂 

山門の正面に本堂があり、その手前左に閻魔・篁堂、薬師堂には本尊 木造薬師如来坐像(重要文化財)を安置している。

結論から言うと、六道珍皇寺の境内には無料で自由に入れるが、小野篁関連などの史跡、遺構は年に数回行われる特別拝観日でのみ、拝観料を支払って見物することができる。この日以外は全く見ることが出来ず、トイレも鍵がかかっていて利用できない。(特別拝観日にのみ利用できる、との注意書きが貼られている。)

以上のことは本堂前で入口を探していたところ、工事立会をしていた住職から説明されて知った。因みに7月は13日〜15日で、山鉾巡行のある17日は参拝できない。さして大きな寺ではないので、特別拝観日の設定は止むを得ないのだろうが、残念ではある。
 六道珍皇寺 閻魔・篁堂 六道珍皇寺 閻魔・篁堂 

閻魔・篁堂

堂内には、右手に笏を持った等身大の衣冠束帯姿の小野篁立像(江戸時代)と善童子や獄卒鬼王さらにはその傍らには、閻魔大王坐像(小野篁作)を安置するとともに弘法大師(空海)坐像等を合祀する。
小野篁(八〇二〜八五二)は、参議小野岑守の子で、嵯峨天皇につかえた平安初期の政治家であり文人・歌人としても知られる。
文章生より東宮学士(皇太子の先生)などを経て閣僚級である参議という高級官僚にまでなり、また乗馬・弓術・剣術など武芸百般にも優れた文武両道の人物であった。
不羈な性格で「野狂」ともいわれるように奇行も多く、昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔王宮の役人であったという奇怪な伝説は、「江談抄」や「今昔物語」などの説話集や「元亨釈書」等にも数多く見られることより、平安末期頃には篁が、独特の神通力を有しつねに現世と冥府の間を往来する閻魔庁における第二の冥官であると語り伝えられていたことからうかがえる。
 六道珍皇寺 閻魔・篁堂 六道珍皇寺 閻魔・篁堂 

(承前)

また、篁は承和五年(八三八)三十代半ばで遣唐副使に任じられながら、大使の藤原常嗣と争い「西道謡」という詩を詠んで遣唐使制度を風刺したことなどにより嵯峨上皇の怒りに触れて隠岐へ流罪となり、一切の官位官職を奪われたこともある。しかし、承和七年(八四〇)には帰京・復位を許され、その後は学殖を高くかわれて順調に官位を登り承和十四年には従三位という高位に就いていることからも篁の尋常でない才能のほどがわかる。
篁が流刑地の隠岐へ流されるときに詠んだ歌は小倉百人一首にも採られ、知る人も多い。
   わたの原 八十島かけて漕ぎ出でぬと
     人には告げよ あまのつり船
 六道珍皇寺 本堂 六道珍皇寺 本堂 
六道珍皇寺 本堂 篁 冥土通いの井戸 六道珍皇寺 本堂 篁 冥土通いの井戸 

当寺の本堂裏庭の北東角(格子窓より見て奥辺り)にある井戸は、平安の昔に篁が冥府の閻魔庁の役人として現世と冥界の間を行き来するのに使ったところといわれている。
いい伝えによれば、篁は亡き母御の霊に会うためにこの鳥辺野にある当寺を訪れ、冥土に通じるといわれるこの井戸を使ったのが最初といわれている。
また「矢田地蔵縁起」にある大和の国(奈良県)金剛山寺(矢田寺)の満慶上人が、篁を介しての閻魔大王の招きに応じて、衆生を救うための戒行である菩薩戒を授けに閻魔庁へ赴いたのも当寺の井戸からとされるなど、珍皇寺の井戸と篁さらには冥界を結びつける不思議な伝説は数多くある。
このように当寺にある井戸は、篁が冥土通いのために往来したところとして知られるが、その帰路の出口として使いこの世に戻ったところが、嵯峨の大覚寺南付近の六道町の一郭に明治の初め頃まであったとされる福生寺の井戸であるとする説もある。
しかし、残念ながら今はその遺址もなく、井戸の伝承はかつての福生寺の本尊として伝わる地蔵菩薩とともに清凉寺西隣の薬師寺に引き継がれている。
これは、平安の昔には珍皇寺あたりの洛東の鳥辺野とともに嵯峨の奥、化野もまた当時の墓所であったことより、ここにもやはり六道の辻は存在していたとすれば、閻魔王宮に出仕していた篁が、冥府よりの帰路に出口としていたとする説もうなずけるところである。
尚、当時の冥土通いの井戸の傍の小祠には、篁の念持仏であった竹林大明神が祀られている。
六道珍皇寺 本堂 篁 冥土通いの井戸 六道珍皇寺 本堂 冥土通いの井戸 

板戸は閉じられており、冥土通いの井戸は見ることが出来ないので、写真が掲示されている。
六道珍皇寺 本堂 六道珍皇寺 本堂 
六道珍皇寺 本堂 六道珍皇寺 本堂 
六道珍皇寺 山門を出て左折、松原通へ 六道珍皇寺 山門を出て左折、松原通へ 
松原通を東進 六道まいりのポスター 松原通を東進 六道まいりのポスター 



 
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