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見番通りを南下
見番通りを南下し、言問橋に近づくにつれ東京スカイツリーが左に大きく見えてくる。 |
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見番通り 突き当りで言問通りに出て左折
すぐ左に三ツ目通りとの交差点である言問橋東交差点がある。右折すると言問橋である。 |
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言問通り 言問橋東交差点で右折、三ツ目通りへ |
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言問通り 言問橋東交差点で右折、三ツ目通りへ |
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三ツ目通り 牛嶋神社 大鳥居
貞観二年(860年)、慈覚大師の御神託により創建。江戸時代から庶民に親しまれた「撫で牛」(なでうし)が祀られ、また本殿前には全国でも数少ない三輪鳥居があります。 |
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牛嶋神社 参道 |
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牛嶋神社 社殿、三輪鳥居
明神鳥居の両脇に脇鳥居が付いており、三輪鳥居と呼ばれる。
牛嶋神社は、貞観二年(八六〇年)に須佐之男命(すさのおのみこと)が、郷土守護神としてまつられたのにはじまり、その後、天之穂日命(あめのほひのみこと)、次いで清和天皇の第七皇子の貞辰親王命(さだときしんのうのみこと)を合わせておまつりしております。 治承四年(一一八〇年)、源頼朝の大軍の豪雨中の参拝とか、天文七年(一五三八年)に後奈良院より「牛の御前社」という勅号を賜ったことなど、古来当社にかかわる伝説・縁起は数多くありますが、江戸時代初期に、境内に撫牛(なでうし)の石像がまつられて信仰をあつめ、十二年に一度の丑の年には、焼物の「牛のお守り」が作られるようになりました。 この「牛のお守り」は、それぞれの時代の人達の身近にあってその人達をお守りし、十二年毎に形を変えて敬愛され続けてきました。 |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) 汐入りの池
牛嶋神社は隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸)の北側の一画にある。
現在の日本庭園は、隅田公園が整備される以前にこの地にあった水戸徳川邸の遺構を活用しています。 ここには江戸時代、水戸藩の下屋敷があり、主に蔵屋敷として使われていました.明治維新後は一時上げ地となりましたが、その後下賜され、水戸徳川家当主が関東大震災で家が全壊するまで代々ここに住みました。当時は最後の将軍徳川慶喜もよく来ていたようで、数多くの写真が残されており、立派な門や洋風建築が建てられていた在り日の姿が伺えます, 関東大震災以後、隅田公園の区域に取り込まれ、邸内の池(当路は汐入の池)等の遺構を活用し、日本庭園へと形を変えて現在に伝えられています。 |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) サクラ並木を南下 |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) サクラ並木を南下 |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) 明治天皇行幸所の碑
ここで左の道を進むと三ツ目通りへ、右だと墨堤通りに出る。 |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) 南東の出口から三ツ目通りへ |
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三ツ目通り 東武スカイツリー線高架手前から見た東武スカイツリー
高架を通り抜けると北十間川に架かる源森橋である。 |
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三ツ目通り 北十間川に架かる源森橋 |
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三ツ目通り 北十間川に架かる源森橋
源森橋の名前の由来は、現在の枕橋(本橋から約二百メートル隅田川寄りの橋)、古くは源森橋と呼ばれていたものが、明治初期に枕橋に正式決定されたことから、本橋を源森橋と呼ぶようになったことによるものである。 その昔、現在の枕橋(旧源森橋)が関東郡代であった伊奈半十郎により中之郷瓦町(現在の吾妻橋地区)から新小梅町(現在の向島地区)に通ずる源森側(現在の北十間川)に架けられた。また枕橋(旧源森橋)北側にあった水戸屋敷内に大川(隅田川)から引き入れた小さな堀があり、これに架かる小橋を新小梅桃と呼んでいた。この二つの橋(旧源森橋、新小梅橋)は並んで架けられていたため、いつの頃からか枕橋と総称されるようになった。 その後、水戸屋敷内への堀は埋められ新小梅橋もいつしか消滅し、残った旧源森橋は明治初期に正式に枕橋と呼ばれることになり、旧源森橋の東側にあった本橋を源森橋と公称した。 現在の源森橋は、昭和三年に架設した鋼橋(上路式アーチ橋)が約八十年経過し、老朽化したため、平成十九年三月に鋼橋(鋼床版鈑飯桁)に架け替えられたものである。 |
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三ツ目通り 吾妻橋交番前交差点で右折、浅草通りへ |
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都営浅草線 本所吾妻橋駅
吾妻橋交番前交差点で右折してすぐの所にある。 |