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好文亭〜二名匠の碑〜御成門

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偕楽園 見晴広場 仙奕台から見える好文亭 偕楽園 見晴広場 仙奕台から見える好文亭 
偕楽園 梅林西南角から見た好文亭 偕楽園 梅林西南角から見た好文亭 

眼の前に好文亭が見えるが、柵があって立ち入れない。入口は柵沿いに北に少し歩いて奥まった所にある芝前門の先にある。そこから南に戻って好文亭に入ることができる。

伝統建築の殿堂質実な中に優美さが漂う

 偕楽園の中心となっている好文亭は木造2層3階建ての好文亭本体と木造平屋建ての奥御殿から成り、2つの建物は太鼓橋廊下で結ばれています。各所に創意工夫と洒脱さを感じさせる造りで、質実な中にも優美さが漂う見事な伝統建築です。偕楽園創設者の徳川斉昭は好文亭からの眺望を愛で、文人墨客や家臣、さらに領内の老人らを集め、詩歌や慰安会を催しました。また水戸城の防備の弱点とされる西側の展望のよいところに位置していることで、水戸城の出城・物見櫓として使われたともいわれ、建物の構造にも敵の攻撃に対する備えと見られる箇所も少なくありません。
 斉昭自筆の設計図によって建てられ、好文亭という名前も、梅を愛した斉昭が中国の故事から梅を意味する「好文」を使って命名しました。

 天保13年(1842)の偕楽園開園後にも増築され、さらに明治2年(1869)には斉昭夫人貞芳院の居所として竹の間、梅の間、清の間が奥殿に増築されました。その後も間取りなどに変化はあったもののほば当初の姿が維持されていましたが、昭和20年の水戸空襲で焼失しました。昭和33年、県が復元工事を完成させ、好文亭は創設時に近い形で再現されました。同44年には落雷のため奥御殿が焼けましたが、同47年にすべて復元されました。平成23年(2011)3月11日に発生した東日本大震災により、被災し閉館していましたが、災害復旧工事が行われ、平成24年2月より開館しました。
偕楽園 梅林西南角から見た好文亭 偕楽園 梅林西南角から見た好文亭 

右が北、下が東の地図で、好文亭は左端中央にある。
偕楽園 梅林西端沿いに北上 偕楽園 梅林西端沿いに北上 
偕楽園 梅林西端沿いに北上 偕楽園記碑 偕楽園 梅林西端沿いに北上 偕楽園記碑 

偕楽園記碑

 偕楽園の名前の由来や創設した理由、利用の心得など
が、斉昭の直筆で記されています。

 碑には、斉昭の宇宙観や人生観、藩主としての姿勢、
偕楽園か弘道館と一対の施設として構想されていたこと
か記されています。                 

 また、この公園は自分ひとりのものではなく、領内の
人々が学問や武芸を学んだあとで余暇を利用して休息し、
心身を養うところであることを明らかにしています。

 偕楽園の名前は、「多くの人々と楽しみをともにしたい」
との思いから名付けられました。
 
 碑の裏には斉昭の、定めた園内での禁止条項(六条)が刻
まれていますが、その内容は今日の公園管理の先駆をなす
ものといえます。
偕楽園 梅林西端沿いに北上 偕楽園記碑 偕楽園 梅林西端沿いに北上 偕楽園記碑 
偕楽園 梅林西端沿いに北上 偕楽園 梅林西端沿いに北上 
偕楽園 梅林西端沿いに北上 左折すると好文亭の案内 偕楽園 梅林西端沿いに北上 左折すると好文亭の案内 
 偕楽園 梅林西端沿いに北上 売店 大和亭 偕楽園 梅林西端沿いに北上 売店 大和亭 

左折すると好文亭に向かう広場にある。売店とはいえ、大きなレストハウスである。
偕楽園 梅林西端沿いに北上 左折して好文亭へ 偕楽園 梅林西端沿いに北上 左折して好文亭へ 

好文亭入口への案内で、大人200円、70歳以上100円、小人100円と表示されている。
偕楽園 好文亭 芝前門 偕楽園 好文亭 芝前門 

芝前門は「しばさきもん」と呼ぶ。
偕楽園 好文亭 入口 入場待ちの長い列 偕楽園 好文亭 入口 入場待ちの長い列 

好文亭は偕楽園の代表的見物コースであり、長い列ができるのは当たり前、と列に並ぶことにした。
偕楽園 好文亭 入口 好文亭案内 偕楽園 好文亭 入口 好文亭案内 

好文亭(こうぶんてい)

 好文亭は、水戸藩第九代藩主徳川斉昭(烈公)が詩歌・管弦の催しなどをして家中の人々とともに心身の休養を図るために天保十三年(一八四二年)に建てたものです。

弘文というのは梅の異名で、「学問に親しめば梅が開き、学問を廃すれば梅の花が開かなかった」という中国の故事にもとづいて名付けられました。

 建物は木造二層三階建ての好文亭本体と北につながる奥御殿(平屋造り)からなり、全体を総称して好文亭と呼んでいます。斉昭はその位置から建築意匠まで自ら定めたといわれています。

 奥御殿を設けた理由は、万一城中に出火などあった場合の立ち退き場所として備えられたためと、当時藩内では管弦など禁制であったので城中の婦人達の遊息の場所としたという配慮があったようです。

 昭和二十年(一九四五年)八月二日未明の空襲で全焼しましたが、昭和三十年(一九五五年)から三年をかけて復元されました。昭和四十四年(一九六九年)九月落雷により奥御殿と橋廊下は焼失しましたが、昭和四十七年(一九七二年)二月に復元されました。

 平成二十三年(二〇一一年)三月十一日の東日本大震災では壁の剥落など大きな被害を受け閉館を余儀なくされましたが、平成二十四年(二〇一二年)二月に復旧しました。
偕楽園 好文亭 入口 入場待ちの長い列 偕楽園 好文亭 入口 入場待ちの長い列 

なかなか列は前に進まないが、団体のガイドの話を聞いていたら好文亭に入れる人数に制限があることと、晴天の土曜なので見物客が多いためなかなか入場できないとのことだった。帰りの特急の時間も決まっていることから見物を諦めた。
偕楽園 好文亭 芝前門から見た風景 偕楽園 好文亭 芝前門から見た風景 
 偕楽園 好文亭 芝前門前 売店 大和亭 偕楽園 好文亭 芝前門前 売店 大和亭 
偕楽園 梅林を北上、御成門に向かう 遺徳之碑遺徳之碑 偕楽園 梅林を北上、御成門に向かう 遺徳之碑遺徳之碑 

遺徳之碑 故茨城県参事関君遺徳碑

 茨城県第六代参事関新平(旧佐賀藩士)が、明治六年から八年まで茨城県の参事(知事)を務め、その間仁政を布き人徳を残して去ったことに対して、多数の旧水戸藩士がその遺徳を偲び明治三十年(一八九七年)に建碑しました。

 関新平は、江藤新平、大木民兵(喬任)とともに「肥前の三平」と呼ばれた逸材です。
偕楽園 梅林を北上、御成門に向かう 遺徳之碑遺徳之碑 偕楽園 梅林を北上、御成門に向かう 遺徳之碑 
偕楽園 梅林を北上、御成門に向かう 偕楽園 梅林を北上、御成門に向かう 

梅の老木が多いとはいえ、桜と違い道を花で覆う並木ではない。それでも晴天の青と、梅の紅白の色のバランスが見事である。
偕楽園 梅林を北上、御成門に向かう 偕楽園 梅林を北上、御成門に向かう 
偕楽園 梅林を北上、御成門に向かう 二名匠碑 偕楽園 梅林を北上、御成門に向かう 二名匠碑 

二名匠碑

 「水戸彫り」とよばれた彫金の名工初代海野美盛と萩谷勝平の技倆を称え、明治四十三年(一九一〇年十一月に海野勝a等によって建立されました。

 碑には、この技術が徳川斉昭の奨励によって発達したことがうたわれています。
 碑の上部の竜と獅子の浮き彫りは、海野勝aによるものです。
偕楽園 梅林を北上、御成門に向かう 二名匠碑 偕楽園 梅林を北上、御成門に向かう 二名匠碑 
偕楽園 梅林を北上、御成門に向かう 偕楽園 梅林を北上、御成門に向かう 

梅の木の前に置かれた竹製の囲いは夜間照明の機器である。
偕楽園 梅林を北上、御成門に向かう 偕楽園 梅林を北上、御成門に向かう 
偕楽園 梅林を北上、御成門に向かう 偕楽園 梅林を北上、御成門に向かう 
偕楽園 梅林を北上、御成門に向かう 熱中症計はほぼ安全 偕楽園 梅林を北上、御成門に向かう 熱中症計はほぼ安全 

現在時刻は12:20で、温度は23.0℃、湿度は低すぎて計測できず、状態はほぼ安全である。
偕楽園 梅林を北上、御成門に向かう 偕楽園 梅林を北上、御成門に向かう 
偕楽園 梅林を北上、御成門に着く 偕楽園 梅林を北上、御成門に着く 
偕楽園 梅林を北上、御成門に着く 偕楽園 梅林を北上、御成門に着く 



 
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