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万歩計



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御徒町駅〜佐竹通り(佐竹商店街)〜鳥越神社

【関連サイト】   台東区 南めぐりんH210824(上野駅〜三井記念病院前〜田原町駅)


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JR 山手線 御徒町駅 JR 山手線 御徒町駅 受付風景 

御徒町駅〜佐竹通り(佐竹商店街)〜鳥越神社〜蔵前橋〜横網町公園・東京都慰霊堂〜厩橋〜隅田川緑道公園(隅田川テラス)〜牛嶋神社〜言問橋〜隅田公園〜雷門〜かっぱ橋道具街〜下谷神社〜アメ横〜御徒町2k540(総行程 9.6km)

【撮影記録】
平成23年 10月 2日  曇り
09:00〜11:10 13,200歩(概算 9.9km)

どんよりとした曇り空で、南めぐりんの運行経路と、隅田川沿いから選び抜いた下町の珍しいコースを歩いた。ゴールが山手線の高架下に設けられた御徒町2k540の外れだったが、秋葉原駅が目の前だった。
御徒町駅(北口)から春日通りへ 御徒町駅(北口)から春日通りへ 
春日通り 台東四丁目交差点で昭和通りを渡る 春日通り 台東四丁目交差点で昭和通りを渡る 
春日通りを東進 春日通りを東進 
春日通り 佐竹通り(佐竹商店街)北口で右折 春日通り 佐竹通り(佐竹商店街)北口で右折 

春日通りの元浅草一丁目交差点手前につくばエクスプレスと都営大江戸線の新御徒町駅の出入口があり、その横に佐竹商店街の入口がある。
春日通り 佐竹通り(佐竹商店街)北口で右折 春日通り 佐竹通り(佐竹商店街)北口で右折 

佐竹商店街

つくばエクスプレス新御徒町駅の南側に延びる、全長約330mの全蓋式アーケードの商店街。秋田藩佐竹家の江戸屋敷跡に、明治に人って見世物小屋や飲食店の屋台などが並んだのが始まりという。
佐竹通り(佐竹商店街)北口 熱中症計はほぼ安全 佐竹通り(佐竹商店街)北口 熱中症計はほぼ安全 

現在時刻は9:10で、温度24.0℃、湿度26%である。熱中症計はほぼ安全である。

どんよりとした曇り空であるが、肌寒さはあっても蒸し暑さはなかった。
佐竹通り(佐竹商店街)を南下 佐竹通り(佐竹商店街)を南下 
佐竹通り(佐竹商店街)を南下 佐竹通り(佐竹商店街)を南下 
佐竹通り(佐竹商店街) 南口 佐竹通り(佐竹商店街) 南口 

佐竹家上屋敷・佐竹っ原跡

江戸時代、この付近一帯は、出羽国久保田(秋田)藩の上屋敷があった地である。藩主は佐竹氏で、二十万余石を領有した。東北地方屈指の外様大名であった。
佐竹家上屋敷の当地開設年代は、「武鑑」からみて、元禄二年(一六八九)もしくは翌三年と考えられる。屋敷地は広大で、現在の台東三・四丁目東半分にわたっていた。
 佐竹家八代藩主佐竹義敦(号曙山)は、日本初の本格的西洋医学書の翻訳書「解体新書」(安永三年(一七七四)刊)付図を描いた藩士小田野直武らとともに、洋風画の一派「秋田蘭画」の基礎を築いた。また天明年間(一七八一ー八九)の狂歌師手柄岡持も藩士であり、当時の文化人がここを中心に活躍していたことがうかがわれる。
 明治になって佐竹家上屋敷や近隣の武家屋敷が撤去され、当地は野原となり、俗に佐竹っ原と呼ばれた。ここは見世物小屋が集中して賑わったが、明治時代半ばから民家が立ち並び、商店街として発展した。現在、「佐竹」の名は、「佐竹商店街」として継承されている。
佐竹通り南口交差点で右折、清洲橋通りへ 佐竹通り南口交差点で右折、清洲橋通りへ 
清洲橋通りを南下 清洲橋通りを南下 
清洲橋通り おかず横丁入口 清洲橋通り おかず横丁入口 

鳥越一丁目交差点手前にあり、蔵前橋通り沿いに並行してある。

東京の下町の台所を支える活気ある商店街。煮豆や佃煮、縁台に並べた野菜、精肉店のコロッケ、あつあつの大学イモなと、おやつにもぴったりな惣菜が並ぶ。
清洲橋通り おかず横丁 清洲橋通り おかず横丁 
清洲橋通り 鳥越一丁目交差点で左折、蔵前橋通りへ 清洲橋通り 鳥越一丁目交差点で左折、蔵前橋通りへ 
蔵前橋通り 旧町名由来 浅草鳥越一丁目 蔵前橋通り 旧町名由来 浅草鳥越一丁目 

 本町名は、鳥越神社にちなんで付けられた。この付近は平安時代後期の頃(一一八五)まで白鳥村と言われていた。日本武尊が東国平定のため東征するおり、この地にしばらくとどまったことから村の人々はそのご威徳を慕い尊び、白雑二年(六五一)白鳥山の山上に白鳥大明神を祀った。その後、永承(一〇四六〜一〇五三)の頃、源義家親子の率いる軍勢が奥州征伐のため大川を越えようとする時、白い鳥に浅瀬を教えられ無事渡ることができたことから義家公は、これ白鳥大明神のご加護とたたえ、鳥越大明神の社号を奉った。

鳥越神社界隈今むかし

 鳥越の西端、旧西鳥越町はかつて明治大正昭和に亘り、旧ニ長町・竹町・小島町と隣接し家内工業地帯として栄えた。旧鳥越本通り商盛会(現おかず横町)と佐竹商店街、美倉橋通り商店街、三昧線堀小売市場等が隣接し、有力商店が軒を並べていた。鳥越キネマ、鳥越日活館また近くには新東京など映画館も三館あり、長い商店街に沿って露店が出店するなど夜おそくまで賑わい浅草六区に次ぐ盛り場であった。
蔵前橋通り 鳥越二丁目交差点 蔵前橋通り 鳥越二丁目交差点 
蔵前橋通り 浅草橋三丁目交差点 蔵前橋通り 浅草橋三丁目交差点 

台東区の南めぐりんは三井記念病院を経て、交差点の右から出てきて蔵前橋通りに出る。

左の木立は鳥越神社である。
蔵前橋通り 南めぐりん #10 鳥越神社前 バス停 蔵前橋通り 南めぐりん #10 鳥越神社前 バス停 
蔵前橋通り 鳥越神社 蔵前橋通り 鳥越神社 

 当神社は、白雉二年(六五一)の創建。日本武尊、天児尾根命、徳川家康を合祀している。
 社伝によると、日本武尊が、東国平定の道すがら、当時白鳥村といったこの地に滞在したが、その威徳を偲び、村民が白鳥明神として奉祀したことを起源とする。後、永承年間(一〇四六−五二)、奥州の安倍貞任らの乱(前九年の役)鎮定のため、この地を通った源頼義、義家父子は、名も知らぬ白鳥が越えるのを見て、浅瀬を知り、大川(隅田川)を渡った。
 このことから鳥越大明神と名付けた。以後、神社名にはこの名を用いるようになり、この辺りは鳥越の里と呼ばれるようになった。天児屋根命は、武蔵の国司になった藤原氏がその祖神として祀ったものとされる。また、徳川家康を祀っていた松平神社(現、蔵前四丁目十六番付近)は、関東大震災で焼失したため大正十四年に当社に合祀された。
蔵前橋通り 鳥越神社 蔵前橋通り 鳥越神社 

鳥越神社

白雑2年(651)白鳥神社として創建。前九年の役の際、源頼義・義家がこの地で白い鳥が飛ぶのを見て浅瀬を知り隅田川を渡ることができたことから、鳥越大明神と名付けられた。毎年6月には元祖千貫神輿で有名な例大祭が行なわれる。
蔵前橋通り 鳥越神社 蔵前橋通り 鳥越神社 

孝徳天皇の白雉2年(651)、日本武尊が東征の折に駐在したと伝わる由緒正しい古社。東京一の重さかあることから通称「千貫神輿」ともよばれる大神輿の渡御で有名な6月の鳥越まつり、1月8日のとんど焼きなどのお祭りには遠方からも大勢の参拝客が訪れる。



 
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