清澄庭園〜新大橋〜横山町問屋街〜神田駅


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清澄公園 清澄公園 

清洲橋を渡ってすぐにあり、元々は清澄庭園の一部である。
清澄庭園 清澄庭園 

清澄庭園は、三菱財閥の創始者、岩崎彌太郎ら岩崎家三代にわたり整備されてきた明治の庭園を代表する回遊式林泉庭園。大泉水に配された島々が水面に映る景色や松の緑、全国から取り寄せた名石の数々を楽しむことができる。
清洲橋通りを越え、清澄通りを北進 清洲橋通りを越え、清澄通りを北進。 
小名木川の高橋北詰のニ代目中村芝翫宅跡 小名木川の高橋北詰のニ代目中村芝翫宅跡 

歌舞伎役者の二代目中村芝翫は、寛政8年(1796年)江戸下谷に生まれ、嘉永5年(1852年)に57歳で没した。文政8年(1825年)にはニ代目中村芝翫を継いだ。天保7年(1836年)には、四代目中村歌右衛門を襲名した。
新大橋 新大橋 

江戸時代には焼失や流失を締り返したか、明治45年に架けられた鉄橋は明治・大正・昭和の3代を生き抜き、隅田川最長寿の橋であった。関東大震災の際にも唯一この橋だけが通行可能で多くの人命を救った。現在の橋は昭和52年に完或した。
新大橋から見た下流の清洲橋 新大橋から見た下流の清洲橋 

右端が清洲橋で、分かり難いが左端の小名木川の河口に松尾芭蕉の深川芭蕉庵などがある。
新大橋 安藤広重「大はし あたけの夕立」 新大橋 安藤広重「大はし あたけの夕立」 

橋脚に飾られているが、磨耗が激しい。原図は色鮮やかである。
浜町公園 浜町公園 

浜町公園は新大橋から上流の隅田川沿いにあり、加藤清正ゆかりの清正公寺がある。
明治座 明治座 
甘酒横丁 甘酒横丁 
水天宮 親子丼の玉ひで 水天宮 親子丼の玉ひで 

甘酒横丁が人形町通りに出た所に玉ひでがある。11時半の開店なのに、11時で長蛇の列である。列を整理していた玉ひでの店員に聞いたら、列の最後で1時間待ちだそうである。右の白い建物は東京メトロ(旧営団)日比谷線の人形町駅である。
蛎殻銀座跡 蛎殻銀座跡 

人形町通りの玉ひでの傍にある。
銀座とは江戸時代の銀貨の製造工場である銀座会所とヽ通用銀貨の検査や銀地金の購入などを扱う銀座役所を総称した組織である。寛 政12年(1800年)6月に、ヽ寛政改革の一つで一旦廃止されたが、その年の11月、改めてこの人形町の場所に幕府直営の度合いを強、めた銀座が再発足した。
人形町通りを右折し、横山町問屋街に向かう。 人形町通りを右折し、横山町問屋街に向かう。 
横山町問屋街 横山町問屋街 

ここは都内最大の現金卸問華街。約1500の商社や店舗が軒を並べ、衣料・服飾品・繊維品なら無いものがないほど商品が揃っている。
横山町問屋街 横山町問屋街 
浅草橋交差点 浅草橋交差点 
浅草橋交差点 浅草橋交差点 

靖国通りを西進。
大和町 大和町 

江戸時代のはじめまで、この界隈は、武家屋敷が立ち並び、通称「元誓願寺箭」と呼ぱれていた。 この地が「大和町」と呼ばれるようになったのは、享保年間(1716〜1736年)のことで、もともと竜閑橋(現在の内神田二丁目にあった橋)の北側にあった大和町に住む人々が、ここに代地を与えられ移転してきたため、大和町代地となった。幕末のころには、この町から隣の東竜閑町にかけて、駄菓子問屋が数百軒ほど軒をつらね、ずいぶん賑わっていたようである。。またここには、蝋燭やべっこう細工、箪笥などをつくる職人も多<住んでいた。
旧お玉ヶ池畔 旧お玉ヶ池畔 

神田平成通りを歩き、岩本町三丁目交差点を渡った所にある。お玉ヶ池は、言うまでも無く千葉周作の道場があった所である。
岩本町三丁目交差点 岩本町三丁目交差点 
紺屋町交差点で昭和通りを渡り神田駅へ。 紺屋町交差点で昭和通りを渡り神田駅へ。 
JR 山手線 神田駅南口 JR 山手線 神田駅南口 
ゴール風景 JR 山手線 神田駅 ゴール風景 JR 山手線 神田駅 

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