築地界隈〜聖路加ガーデン〜勝鬨橋
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朝日新聞社 本社 都営地下鉄大江戸線の築地市場駅前にあり、新大橋通りの築地場外市場前にある。 |
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築地場外市場 風景 | |
築地場外市場 風景 | |
築地場外市場 風景 | |
築地4丁目交差点で、晴海通りを渡る。 新大橋通りを北進、築地本願寺に向う。 |
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築地本願寺 本堂 元和3年(1617)、西本願寺の別院として准如上人が浅草横山町に建立。明暦3年(1657)の振袖火事で消失し、幕府の区画整理のために現在地に再建された。関東大震災で罹災し、現在の本堂は昭和9年に落成した古代インド様式の石造りの中に桃山様式を取り入れた荘厳な建物で、寺院にばめずらしパイプオルカンが設置されている。 |
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築地本願寺 本堂 | |
築地本願寺 本堂 | |
築地本願寺 本堂 | |
築地本願寺 後備第一師団記念碑 築地本願寺の南西の角に建っており、風化もしているため、読みにくい。日露戦争の後備第一師団の参陣記念塔である。題字は鴨緑江行軍司令官の川村大将である。 |
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築地本願寺 後備第一師団記念碑 | |
築地本願寺 凱旋釜の碑 謂れは全く分らないが、側面に「満州軍総参謀長陸軍大将児玉源太郎」と彫られており、日露戦争がらみである。 |
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築地本願寺 凱旋釜の碑 | |
聖路加看護大学、聖路加ガーデン 新大橋通りの築地3丁目交差点で右折、隅田川に向って歩き、明石町に着く。 |
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聖路加看護大学 芥川龍之介生誕の地 聖路加看護大学の柵に取り付けられている。両国にも同じような碑があるが、その理由も書かれている。 明治十六年(一八八三)ごろ、この付近(当時の京橋区入船町八丁目一)に「耕牧舎」という乳牛の牧場がありました。作家芥川龍之介(一八九二〜一九二七)は、明治二十五年三月一日、その経営者新原敏三のの長男として、ここに生まれました。 龍之介は誕生後七ヵ月にして、家庭の事情から母の長兄芥川道章に引き取られて、本所区小泉町(現 墨田区両国三丁目)に移り、十二歳の時、芥川家の養子になりました。 |
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聖路加看護大学 | |
聖路加看護大学 | |
聖路加看護大学、聖路加ガーデン | |
聖路加看護大学 慶応義塾発祥の地 聖路加看護大学の敷地の前にある碑で、安政5年に福沢諭吉がここに学塾を開いた。 |
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聖路加看護大学 「蘭学の泉はここに」 聖路加看護大学の敷地の前にある碑で、右の図は解体新書の図である。字がかすれていて読みにくい。 名前は出していないが翻訳の中心的人物であった前野良沢の家があった中津藩中屋敷がこの地にあった。ちなみに、福沢諭吉も中津出身である。 |
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聖路加看護大学 日本近代文化事始の地 | |
聖路加ガーデン | |
隅田川テラス 隅田川は、東京都北区の新岩淵水門で荒川から分岐し、石神井川や神田川などの支流河川と合流し東京湾に注ぐ。もとは荒川の本流だったが、洪水を防ぐため明治末期から昭和初期にかけて建設された荒川放水路が政令により荒川の本流となり、岩淵水門より先は俗称だった「隅田川」に改称された。古くは住田河、宮古川、大川などとも呼ばれた。 |
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隅田川テラスから見た勝鬨橋 | |
隅田川テラスから見た勝鬨橋 勝どき橋は、隅田川に架かる橋で、晴海通りが通る。日本では珍しい可動橋(跳開橋)だが、現在は跳開していない。明治38年、日露戦争での旅順陥落祝勝記念として築地と月島を結ぶ「勝鬨の渡し」が有志により設置。月島には造船所などが多く交通需要があったため、架橋することになった。当時は隅田川を航行する船舶が多がったため、跳開により大型船舶が通航できるようにした。昭和15年に完成、 「束洋一の可動橋」と呼ばれるほどの評判を得た。 築地側の橋のたもとには、かちどき橋の資料館(火・木・金・土曜の開館。入場無料)がある。 |
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勝鬨橋で隅田川を遡る水上バス |
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