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両大師橋〜かっぱ橋本通り(合羽橋交差点〜公園六区入口交差点)

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都道 神田白山線 両大師橋 都道 神田白山線 両大師橋 

上野駅を通るJR各線や、新幹線の上を跨ぐ跨線橋で、西詰の両大師に因む。
都道 神田白山線 両大師橋 都道 神田白山線 両大師橋 

隣接するビルの5〜6階に相当する高さで、かなりの急坂である。
凌雲橋歩道橋で左折 凌雲橋歩道橋で左折 

両大師橋からの急坂が終わった手前に凌雲橋歩道橋がある。右折すると入谷口通りで、東西めぐりんバスは上野駅入谷口方向からこの通りを使って谷中と往復する。
突き当りを右折、都道 神田白山線へ 突き当りを右折、都道 神田白山線へ 

左折すると入谷口通りで、根岸に向かう。
都道 神田白山線 北上野交差点で右折、昭和通りへ 都道 神田白山線 北上野交差点で右折、昭和通りへ 
昭和通り 上野七郵便局 昭和通り 上野七郵便局 
昭和通り 上野七郵便局先交差点で左折 昭和通り 上野七郵便局先交差点で左折 

上野七郵便局先の名も無い交差点で左折、昭和通りを渡る。
参加していないので分からないが、左折を指示する係員が必要な場所である。
東京メトロ(旧営団) 銀座線 上野検車区 東京メトロ(旧営団) 銀座線 上野検車区 

東京メトロ(旧営団)で唯一の踏み切りで、電車の出入があると遮断棒が下りてくる。
東京メトロ(旧営団) 銀座線 上野検車区 東京メトロ(旧営団) 銀座線 上野検車区 
上野小学校前交差点で左折、清洲橋通りへ 上野小学校前交差点で左折、清洲橋通りへ 

銀座線の踏切前を通り、左に台東保険所がある交差点を過ぎて大きな道路に出る。これが清洲橋通りであるが、交差点名は見え当たらなかった。上野小学校は交差点を渡り、右側にある。
清洲橋通り 東上野五丁目交差点で右折、かっぱ橋本通りへ 清洲橋通り 東上野五丁目交差点で右折、かっぱ橋本通りへ 

清洲橋通りは、この先の駒形中学校前交差点でJR線路に沿って上野学園前を北上してきた道路と合流する。東西めぐりんバスはこの交差点の左から来て、かっぱ橋本通りを東に向かう。
清洲橋通り 東上野五丁目交差点で右折、かっぱ橋本通りへ 清洲橋通り 東上野五丁目交差点で右折、かっぱ橋本通りへ 

交差点名の標識が見当たらず、目標としては交差点手前の住友不動産上野ビル6号館が分かりやすい。
清洲橋通り 東上野五丁目交差点で右折、かっぱ橋本通りへ 清洲橋通り 東上野五丁目交差点で右折、かっぱ橋本通りへ 

案内標識で、曲がるとかっぱ橋本通りとの表示がある。かっぱ橋道具街まで540m、浅草寺まで1300mである。
かっぱ橋本通りを東進 かっぱ橋本通りを東進 
かっぱ橋本通り 東西めぐりん #22 北上野二丁目 かっぱ橋本通り 東西めぐりん #22 北上野二丁目 
かっぱ橋本通り 町名由来 旧松葉町 かっぱ橋本通り 町名由来 旧松葉町 

河童像と一緒に併設されている。
かっぱ橋本通り 町名由来 旧松葉町 かっぱ橋本通り 町名由来 旧松葉町 

 この付近は元禄十一年(一六九八)に勅額火事といわれる大火に見舞われ焼失した。跡地には多くの寺院が移転し、門前町が開かれるに伴って新寺町と呼ばれるようになった。
 本町は、明治二年(一八六九)それまであった浅留町と浅草坂本町に付近の門前町がひとつになってできた。町名は新寺町の名主高松喜内の「松」と坂本町名主二葉伝次郎の「葉」をとって名付けられた。
 町内に「河童大明神」で知られる曹源寺がある。音、このあたりは土地が低いため雨が降るとたちまち水が出て人々は苦しんでいた。雨合羽商の合羽川太郎は、これを見てだまっていられず排水のための堀割を作ろうとしたが工事は思うように進まない。そこにかつて川太郎に助けられたという河童が出てきて川太郎の工事を手伝い、困難な工事をまたたくまに完成させたという。このようなことから曹源寺には川太郎の墓とともに河童が大明神としてまつられたという。
かっぱ橋本通り かっぱ寺 曹源寺 かっぱ橋本通り かっぱ寺 曹源寺 

伝承によると文化年間(一八○四〜一七)に、当地の住人で雨合羽商の合羽川太郎(合羽屋喜八)という人物がいた。この付近は水はけの悪い低地で雨が降ると洪水となり、人々は困窮していた。そのため川太郎は私財を投じて排水のための堀割工事にとりかかった。このとき、かつて川太郎に助けられた隅田川の河童が工事を手伝い、堀割工事が完成した。この河童を目撃すると商売繁盛したという。この伝承が「かっぱ寺」という通称の由来であり、「合羽橋」(合羽橋交差点の付近にあった)という橋の名もまた、この伝承に由来するともいわれる。当寺には河童大明神が祭られるほか、合羽川太郎の墓とつたえる石碑があり、「てつへんへ手向けの水や川太郎」という句が刻まれている。
かっぱ橋本通り かっぱ寺 曹源寺 かっぱ橋本通り かっぱ寺 曹源寺 
かっぱ橋本通り かっぱ寺 曹源寺 かっぱ橋本通り かっぱ寺 曹源寺 
かっぱ橋本通り かっぱ寺 曹源寺 かっぱ橋本通り かっぱ寺 曹源寺 
かっぱ橋本通り 東西めぐりんバス かっぱ橋本通り 東西めぐりんバス 
かっぱ橋本通り 海禅寺 梅田雲浜の墓 かっぱ橋本通り 海禅寺 梅田雲浜の墓 

 雲浜は若狭国小浜(現、福井県)藩士、矢部岩十郎の二男として、文化十二年(一八一五)に生まれた。朱子学を修め、大津、京都で子弟を教える。嘉永五年(一八五二)、幕府を批判したため小浜藩を追放される。 しかし藤田東湖・佐久間象山・高杉晋作らと交際し、尊皇攘夷論を唱え、その活動は常に幕政批判で、開国論者の大老井伊直弼排斥も企てたが、安政五年(一八五八)の「安政の大獄」で捕えられた。翌六年九月十四日、小倉藩江戸邸の獄中で病没。遺体は海禅寺内の泊船軒に仮埋葬され、文久二年(一八六二)現存の墓石が建てられた。
かっぱ橋本通り 海禅寺 梅田雲浜の墓 かっぱ橋本通り 海禅寺 梅田雲浜の墓 
かっぱ橋本通り 合羽橋交差点でかっぱ橋道具街通りを渡る かっぱ橋本通り 合羽橋交差点でかっぱ橋道具街通りを渡る 

左折するとかっぱ橋道具街であり、手前には金色のかっぱ河太郎像がある。
かっぱ橋本通り 合羽橋交差点 かっぱ橋本通り 合羽橋交差点 

かっぱ橋本通りでのかっぱ橋道具街らしさは、かっぱ橋交差点を過ぎてすぐの所までである。その前後は普通の商店街である。
かっぱ橋本通り 合羽橋交差点 かっぱ橋本通り 合羽橋交差点 

 この地点西方の合羽橋交差点の所に、橋が架けられていた。合羽橋である。橋梁台帳によると、昭和八年廃橋になったが、長さ約四メートル、幅十一メートルの橋だった。橋下の水路は新堀川・新堀といい、南流して鳥越川に合していた。
 寛文十一年(一六七一)刊の絵図に描かれているものの、創架年代は不明。初め無名橋で、のち橋畔の寺院名をとって清水寺橋といい、ついで合羽橋と呼んだ。近くに合羽屋があったので、合羽橋といったそうだ。文化年間(一八〇四〜一七)、合羽屋喜八、通称合羽太郎が私財を投じ、隅田川に住む河童の助けを得て、新堀を開いたとの伝承がある。橋名由来はその伝承にちなむともいう。
かっぱ橋本通り 周辺案内図 かっぱ橋本通り 周辺案内図 

合羽橋交差点から次の交差点脇にあり、南下(案内図では上)すると東本願寺に出る。
かっぱ橋本通り 東西めぐりん #24 テプコ浅草館 かっぱ橋本通り 東西めぐりん #24 テプコ浅草館 

右後方にテプコ浅草館がある。
かっぱ橋本通り 公園六区入口交差点で左折、国際通りへ かっぱ橋本通り 公園六区入口交差点で左折、国際通りへ 
かっぱ橋本通り 公園六区入口交差点で左折、国際通りへ かっぱ橋本通り 公園六区入口交差点で左折、国際通りへ 

右後方には六区のシンボルでもあるROXビルがある。



 
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