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都道 神田白山線 国立博物館前交差点で左折、上野公園へ |
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上野公園 |
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上野公園 大噴水 |
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上野公園 大噴水前広場の大道芸人 |
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上野公園 大噴水前広場で左折 |
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上野公園 東京文化会館 |
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上野公園 東京文化会館 界隈案内図 |
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上野公園 東京文化会館横を南下 |
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上野公園 正岡子規記念球場
東京文化会館前の球場前にあり、ボールを象った正岡子規の句碑である。
春風や
まりを投げたき
草の原 |
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上野公園 正岡子規記念球場
正岡子規(1867〜1902)は俳人、歌人、随筆家であり、現在の愛媛県松山市に生まれた。名は常規。子規は、明治時代のはじめに日本に紹介されて間もない野球(ベースボール)を愛好し、明治19年頃から同23年頃にかけて上野公園内で野球を楽しんでいた。
子規の随筆「筆まかせ」には、明治23年3月21日午後に上野公園博物館横空地で試合を行ったことが記されており、子規はこのとき捕手であったことがわかる.子規の雅号のひとつに、幼名の升にちなみ「野球(の・ぼ−る)という号がある。子規は野球を俳句や短歌、また随筆、小説に描いてその普及に貢献した。ベースボールを「弄球」と訳したほか「打者」「走者」「直球」などの訳語は現在も使われている。これらの功績から平成14年に野球殿堂入りをした。
子規が明治27年から同35年に亡くなるまで住んでいた住居は、戦後再建され「子規庵」(台東区根岸2−5−11)の名で公開されている。
上野恩賜公園開園式典130周年を記念して、ここに子規の句碑を建立し、野球場に「正岡子規記念球場」の愛称が付いた。 |
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上野公園 管理所前の大道芸人
大噴水広場前の大道芸人同様、「ヘブンアーティスト公演中」の旗を掲げている。しかし、場所が良くないのか、芸人の腕によるものか立ち止まる人はいない。 |
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上野公園 摺鉢山前交差点で左折、日本芸術院会館へ |
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上野公園 日本芸術院会館 |
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上野駅 パンダ橋 |
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上野駅 上野駅東西自由通路建設地点の遺跡
東京都上野公園内は上野忍岡遺跡群として縄文時代〜近世の遣跡が広がり、江戸時代には寛永寺境内地であった。本遺跡は上野台地の東南の縁辺に位置し、北西に東京文化会館構内・国立西洋美術館構内の遺跡が分布している。当地は近世には寛永十一年(一六三四)から寛永寺子院の常照院が存在していたが、一六七八年に凌雲院が移転してきた。凌雲院の境内は当地から東京文化会館と国立西洋美術館まで続き、十八世紀中頃以降は徳川御三卿(田安・一橋・清水家)の墓所となっていた。国立西洋美術館構内の発掘調査では清水家の墓が発見され、東京文化会館においても墓が確認されている。
当地は平成十年(一九九八)に東西自由通路(現パンダ橋)建設に伴い調査を実施した。調査地の北東側に十七世紀頃の「段切状遺構」(雛壇状の区画)が検出され、また「地下室」等も常照院に関係するものと推測される。その後北半分は整地されて墓所となっており、十九世紀頃の板石組の石槨墓(五基)や墓所を区画する石組か発見され、一橋家の墓所と推測される。遺物では「地下室」から中国製磁器、銅製灯明具、松竹・鶴亀文印刻の土師質(素焼き)皿などが出土した。 |
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上野駅 パンダ橋
パンダは上野をイメージし、子供から大人まで広く愛されています。この橋の名は、温か味がありかつ覚えやすいことから公募により決まりました。
なお、この石は接触変成岩(せっしょくへんせいがん)のひとつで、花崗岩(かこうがん)マグマが上昇中に砂岩(さがん)や頁岩(けつがん)などをとりこんでできたもので、白と黒のコンストラストの面白さからパンダ石と呼ばれています。 |
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上野駅 パンダ橋
パンダ橋の北側には上野駅公園口がある。 |
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上野駅 パンダ橋 |
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上野駅 パンダ口 |
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上野駅前広場の上に造られたコンコース(ジュエリーブリッジ)を東進
正面に聳え立つ茶色のビルは、ゴールの東京メトロ(旧営団)本社である。 |
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昭和通り 東京メトロ(旧営団)本社
コンコース(ジュエリーブリッジ)の東の外れにあり、手前の階段を下りて昭和通りに出る。 |
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ゴール 東京メトロ(旧営団)本社 上野駅 |