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春日通り 富坂〜伝通院〜茗荷谷駅

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有名仏閣 伝通院


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後楽園駅前 礫川公園 後楽園駅前 礫川公園 
富坂下交差点で左折、春日通りへ 富坂下交差点で左折、春日通りへ 
春日通り 富坂 春日局之像 春日通り 富坂 春日局之像 

公園を歩いて北上すると春日局像の脇から春日通りに出ることもできる。
春日通り 富坂 春日局之像 春日通り 富坂 春日局之像 

文京区「春日」の地名は春日局が乳母として仕えた将軍徳川家光より拝領した土地に由来しは昔は春日殿町とよばれていました。
また春日局の菩提寺麟祥院が湯島にあり文京区は春日と歴史的に深い縁があります。
春日通り 富坂 春日通り 富坂 

「とび坂は小石川水戸宰相光圀卿の御屋敷のうしろ、えさし町より春日殿町へ下る坂、元は此処に鳶多して女童の手に持たる肴をも舞下りてとる故とび坂と云」と『紫一本jにある。鳶が多くいたので、鳶坂、転じて富坂となった。
 また、春日町交差点の谷(ニヶ谷)をはさんで、東西に坂がまたがって飛んでいるため飛坂ともいわれた。そして、伝通院の方を西富坂、本郷の方を東富坂ともいう。 都内に多くある坂名の一つである。
春日通り 富坂 旧町名案内 旧小石川町 春日通り 富坂 旧町名案内 旧小石川町 

京都聖護院門跡道興准后が、「廻国雑記」(文明18年・1486)に次のことを書いている。
ここ(上野忍岡)を過ぎて小石川と言へる所にまかりて、我方を思ひ深めて小石河いつをせにとかこひ渡るらん」
また、「江戸砂子」(享保17年・ 1732)に、「小石多き小川が幾流もある故なり・わけて伝通院の後の流、ねこまた橋の川筋小石川の濫觴なり」とある。
むかし、千川(小石川)、江戸川(神田川)や周囲の高台から流れた細流が、現在の後楽園一帯で合流していた。これらの川は砂や小石が多かったので、この辺を小石川村と呼んだ。明治5年、小石川町とした。
春日通り 富坂 東京都戦没者霊苑 春日通り 富坂 東京都戦没者霊苑 

春日通りの礫川公園と中央大学の理工学部の間に挟まれ、入口は狭く目立たないが、中に入ると公園風になっている。
春日通り 富坂 東京都戦没者霊苑 春日通り 富坂 東京都戦没者霊苑 
春日通り 富坂 東京都戦没者霊苑 春日通り 富坂 東京都戦没者霊苑 
春日通り 富坂 東京都戦没者霊苑 春日通り 富坂 東京都戦没者霊苑 

霊園の背後には中央大学理工学部の校舎が聳え立つ。
春日通り 富坂上 中央大学理工学部 春日通り 富坂上 中央大学理工学部 
春日通り 富坂上交差点 春日通り 富坂上交差点 
春日通り 伝通院前交差点で右折 春日通り 伝通院前交差点で右折 

交差点で右折すると伝通院である。
伝通院 徳川家康生母 お大の墓 伝通院 徳川家康生母 お大の墓 

伝通院が徳川家康の生母のお大(於大)の方を葬ったことから、豊臣秀頼の妻千姫、徳川家光正室の孝子など、徳川家所縁の墓がある。新撰組にも所縁があり、新撰組(新選組)前身の浪士組み結成の処静院跡、浪士組の清岡八郎や、佐藤春夫の墓がある。

伝通院は別ページにまとめた。
春日通り 文京区立 茗台中学校 春日通り 文京区立 茗台中学校 

一見市民ホールのような建物であるが、中学校である。
春日通り 小石川五丁目交差点 春日通り 小石川五丁目交差点 

右折すると桜並木で有名な播磨坂があり、下ると小石川植物園がある。
東京メトロ 丸ノ内線 茗荷谷駅 東京メトロ 丸ノ内線 茗荷谷駅 



 
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