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靖国神社(外苑休憩所〜大村益次郎銅像〜第一鳥居)

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有名神社 靖国神社
靖国神社H210108


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初詣の靖国神社 外苑休憩所 初詣の靖国神社 外苑休憩所 

第二鳥居前の土産物店で、小泉元首相以来、首相をテーマにした饅頭販売で有名である。以前は、ここと国会でしか売られていなかったが、漫画宰相として有名な麻生総理時代はは秋葉原でも買うことが出来た。
初詣の靖国神社 外苑休憩所 初詣の靖国神社 外苑休憩所 

この土産物は自民党系と民主党系の2店が製造、販売しており、小泉元首相で味をしめた店は、その後の短命政権で在庫の山を築き、民主党政権下では石破、小泉進次郎でしのいでいた。
民主党系の店は鳩ポッポ人気で売れるかと思ったが、歴代の不評でさっぱり売れなかった。今回の政変でどのようになるのか楽しみである。
初詣の靖国神社 外苑休憩所 初詣の靖国神社 外苑休憩所 
初詣の靖国神社 外苑休憩所 初詣の靖国神社 外苑休憩所 
初詣の靖国神社 表参道 大村益次郎銅像 初詣の靖国神社 表参道 大村益次郎銅像 
初詣の靖国神社 表参道 大村益次郎銅像 初詣の靖国神社 表参道 大村益次郎銅像 

大鳥居(第一鳥居)と第二鳥居との中間にある巨像で、旧帝国陸軍創始者で長州藩士、大村益次郎の像である。

 大村益次郎は文政七年(一八二四)周防国鋳銭司村(現、山□県山口市)の医者の家に生まれ、はじめ村田蔵六といった。広瀬淡窓について儒学を、緒方沢庵について蘭学を学び、嘉永の初め宇和島藩に仕えてはじめて西洋式軍艦を設計建造。さらに江戸に出て私塾「鳩居堂」を開き、幕府の講武所教授等を勤め蘭学者、蘭方医、兵学者としてその名を高めた。ついで桂小五郎の推薦により長州藩に仕え、慶応二年、第二次長州征伐の折に、石州□の戦を指揮して幕府軍を破り戦術家として脚光を浴びた。戊辰戦争では新政府の軍務局判事に任じられ、大総督府に参じ東北の乱を平定。ついで兵部大輔に任じられ、建議して軍制を洋式に改める事を主唱したため攘夷主義者を刺激し、京都出張中の明治二年(一八六九)九月、不満士族に襲われて重傷を被り、同年十一月五日大阪にて歿した。四十六歳。
 明治二年八月、戊辰戦争の戦歿者を祀る東京招魂社(現、靖國神社)の創建に際し、社地選定のため同月十二日、この地を視察したことも記録に見え、靖國神社創建者としての功績は大きく、明治十五年、伯爵山田顕義らにより銅像の建立が発議され、宮内省から御下賜金の御沙汰もあり、彫刻師大熊氏廣に塑型の製作が委嘱された。
大熊氏廣の帰朝後、漸く明治二十六年にいたりこの地にわが国最初の西洋式銅像が建立された。大熊はキヨソネの描いた大村益次郎の肖像画や遺族らに取材しながら製作にあたったという。陣羽織をつけ左手に双眼鏡をもち、東北の方を望む姿は、上野東叡山にたてこもる彰義隊討伐の時の様子と言われる。
初詣の靖国神社 表参道の左手に様々な慰霊碑、記念碑がある 初詣の靖国神社 表参道の左手に様々な慰霊碑、記念碑がある 
初詣の靖国神社 表参道  慰霊之泉 −戦没者に水を捧げる母の像ー 初詣の靖国神社 表参道  慰霊之泉 −戦没者に水を捧げる母の像ー 

 戦没者の多<は、故国の母を想い、清い水を求めながら、息を引き取リました。
 この彫刻は清らかな水を捧げる慈愛に溢れる母を抽象的に表現したものです。
 またこの母の像の外壁は、日本古来の宮や社にある固有の簡素なたたずまいを表します。
 そして背後には第二次世界大戦激戦地の戦跡の石を収集して展示しております。
初詣の靖国神社 表参道  慰霊之泉 −戦没者に水を捧げる母の像ー 初詣の靖国神社 表参道  慰霊之泉 −戦没者に水を捧げる母の像ー 
初詣の靖国神社 田中支隊忠魂碑 初詣の靖国神社 田中支隊忠魂碑 

第一次世界大戦は、四年余にわたって戦われたが、特にロシアに与えた影響は甚大で、大正六年(一九一七年)三月、革命が起り、翌年三月にはドイツと単独講和を締結してロシア軍は殆ど解体状態となった。
 当時オーストリア・ハンガリー軍のチェコ・スロバキア人兵士の中からロシア軍に投降し、連合国側に協力していた約五万のチェコ・スロベキア軍団は、ウラジオストクから欧州の連合国側戦線に増援のため同地に移動していたが、各地でロシア過激派(革命派)等の抵抗を受けていたので、日本、アメリカ、イギリス、フランス等の各国は、チェコ・スロバキア軍救援の名目でシベリアに軍を派遣することを決した。
(中略)
 田中支隊主力(一五〇名)は香田小隊を赴援中、大正八年二月二十六日朝香田小隊を覆滅した敵と遭遇したが衆寡懸絶して包囲され、敵に多大な損害を与えたが支隊長は敵弾を受けて自刃し、全員壮烈な戦死を遂げた。更に配属の砲兵中隊及び歩兵一小隊は西川達次郎砲兵大尉が指揮し、ユフタにおいて待命中、主力方面に銃声を聞き救援に赴いたが優勢な敵と衝突し、負傷して戦場を退いた五名の外、一〇七名悉く火砲と運命を共にした。
 この忠魂碑は、重傷を負い生還された山崎千代五郎氏等が戦友の悲壮な最期を想起し、その神霊を慰めるため昭和九年二月二十六日、九段坂下に建立されたものを平成八年九月三日現在地に移設したものである。
初詣の靖国神社 常陸丸殉難記念碑 初詣の靖国神社 常陸丸殉難記念碑 

 明治三十七年(一九〇四)日露戦争が勃発し、同年六月十四日、後備近衛歩兵第一聯隊長須知中佐は、その第二大隊と第十師団糧食縦列と共に、常陸丸に乗船して宇品を出港し、勇躍征途に就いた。翌十五日午前十時頃、沖ノ島付近に達すると、折からの雲霧の切れ間より突如として三隻の敵艦が現われ、猛砲撃を加えてきた。もともと海戦の装備を持たない輸送船のこととて、全く応戦の術なく、忽ちにして船上は修羅の巷と化し、搭乗の山村海軍中佐をはじめ、船長、航海士も相継いで斃れた。野戦攻城にかけてば鬼神をも取り拉ぐべき益荒男も、海上では如何とも為し難く、今はこれまでと覚悟焼した後従容として自決し、大隊長山縣少佐以下一千有余名の勇士も無念の涙飲んで玄海灘の波間に没した。。
 武備なき輸送船常陸丸の悲劇は、その後数々の詩歌に歌われて広く人口に膾炙し、人々はその悲運の最期を悼んだ。
初詣の靖国神社 常陸丸殉難記念碑 初詣の靖国神社 常陸丸殉難記念碑 
初詣の靖国神社 大鳥居(第一鳥居) 初詣の靖国神社 大鳥居(第一鳥居) 

大鳥居(第一鳥居)は靖国神社御創建五十周年記念として大正十年に建立されたが、昭和十八年戦力増強のため撤去されてそのあとに小さな檜の鳥居が建てられていた。
全国約一万七千名の芳志に基づく浄財一億六千万によってこの大鳥居を再建復原して御祭神二百四十五万余柱の英霊に捧げるものである。
初詣の靖国神社 表参道 初詣の靖国神社 表参道 
初詣の靖国神社 大鳥居(第一鳥居) 初詣の靖国神社 大鳥居(第一鳥居) 



 
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