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角を右折、東京水産ビル前を歩く
東京水産会館の先の角を右折する。 |
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角を右折、清澄通りへ
江戸バスはUターンして清澄通りに戻る。 |
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豊海町交差点で右折、清澄通りへ |
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清澄通り 月島埠頭を過ぎる
月島埠頭を過ぎると、手前に月島警察署があり、その後ろにザ・東京タワーズが聳え立つ。 |
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清澄通り 月島警察署前交差点で左折 |
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大嘉倉庫前で右折、西仲通りへ |
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西仲通りを北上
西仲通りというと月島もんじゃ街を思い出させる。この西仲通りを進み、晴海通りを渡るともんじゃ街に至る。 |
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中央区 江戸バス(南循環) #22 勝どき五丁目
次の交差点で右折し、月島アパート沿いを進む。 |
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月島アパート沿いに歩き左折、清澄通りへ
交差点に名前はないが、月島警察署前交差点の次の交差点である。左角にはザ・東京タワーズがある。 |
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清澄通り 月島アパート界隈案内図 |
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中央区 江戸バス(南循環) #23 新島橋南
清澄通りの新島橋手前にバス停がある。 |
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中央区 江戸バス(南循環) #24 勝どき三丁目 |
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中央区 江戸バス(南循環) #25 勝どき駅南 |
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清澄通り 勝どき駅前交差点で左折、晴海通りへ |
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晴海通り 月島第二幼小前交差点
#22 勝どき五丁目バス停がある西仲通りは、この交差点の左から出て、晴海通りを渡り、もんじゃ街に至る。 |
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晴海通り 隅田川に架かる勝鬨橋
勝鬨橋は、東京港修築工事の一環として、海運と陸運の共栄を意図し、建造された、中央二連がハの字形に跳ね上がる日本国内において唯一のシカゴ型二葉式跳開橋等で、昭和十五年(一九四〇年)六月に竣功した。
勝鬨橋の特筆すべき点として、我が国最大の可動支間を有し大規模でかつ技術的完成度の高い構造物であり、上部構造は中央二連の中路式可動桁及び機械装置よりなる跳開橋と、左右一連の拱曲線を放物線とした下路式ソリッドリブタイドアーチからなる。
下部構造は直接基礎の鉄筋コンクリート造で内部に機械装置を収め、可動桁の端部が回転する空間を備える橋脚二基と、杭基礎の橋台二基からなる。
建造工事は、東京市が施工し、設計者は東京市嘱託員成瀬勝武の指導のもと同技師瀧尾達也及び安宅勝らである。 |
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晴海通り 勝鬨橋 築地市場
勝鬨橋の西詰には築地市場がある。 |
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晴海通り 勝鬨橋西詰 海軍経理学校の碑
海軍兵学校につながる軍艦操練所跡の碑は、晴海通りをさらに進み、築地市場の銀座よりの端の築地六丁目交差点を左折した所にある。 |
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晴海通り 勝鬨橋西詰 勝鬨の渡し
明治二十五年(一八九二)、銀座・築地方面と月島との間には「月島の渡し」が開設されましたが、月島側の発展にともない、両地の交通はこれのみではさばけない状態でした。
明治三十八年(一九〇五)、日露戦争の旅順要塞(中国東北部)陥落を契機に、京橋区民の有志が「勝鬨の渡し」と名付けて渡船場を設置し、東京市に寄付しました。当地にある石碑は、この時に建てられた記念碑です。石碑の正面に「かちときのわたし」とあり、側面には「明治三十八年一月京橋区祝捷會挙行之日建之京橋区同志會」と陰刻されています。
設置された勝鬨の渡しの渡船場は、ここから約一五〇メートル西の波除稲荷神社の辺りにありました。対岸にある月島側の渡船場は、月島西河岸通九丁目(現在の勝どき一・三丁目の境)の辺りにあって、この間を渡船が通航していました。
勝鬨の渡しは、住民や月島の工場へ通う人々の重要な交通機関として大いに利用されていました。とくに、月島への労働人口の集中を容易にさせることになり、月島が工業地帯として発展する基となりました。
大正十二年(一九二三)の関東大震災後、架橋運動が起こり、船が通過する際に跳ね上がる可動橋が架せられることになりました。勝鬨の渡しは橋の架橋まで運航され、昭和十五年(一九四〇)六月、勝鬨橋の開通とともに廃止されました。
勝鬨の渡しの名は橋名に受け継がれて今もその名を残しています。 |
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晴海通り 勝鬨橋西詰 勝鬨の渡し |