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根岸三丁目バス停から突き当りの交差点に向かう北めぐりん |
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突き当り交差点で右折 千手院
コース変更の3番目で、以前は左折し、金杉通り沿いに進んで言問通りに出、すぐ左の鶯谷駅(現 鶯谷駅南)に進んだ。#21防災広場根岸の里に寄るための変更と思われる。 |
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北めぐりん #21 防災広場根岸の里
手前に防災広場根岸の里と言う公園がある。 |
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根岸四丁目交差点で左折、一方通行路へ |
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一方通行の住宅街を西進
このような道を歩くと、コミュニティバスらしさを感じる。 |
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東日暮里四丁目南交差点で左折、尾竹橋通りへ |
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北めぐりん #22 入谷区民館根岸分館 |
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尾竹橋通り 根岸小学校前交差点
この交差点の右側から、尾久橋通りが始まる。 |
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尾竹橋通り 鶯谷駅前交差点で左折、言問通りへ
直進すると鶯谷駅で、車道橋は寛永寺陸橋で、坂を上って寛永寺に至る。 |
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尾竹橋通り 鶯谷駅前交差点で左折、言問通りへ |
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北めぐりん #23 鶯谷駅北 |
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北めぐりん #23 鶯谷駅北
現在地は左端縦線の下部である。 |
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言問通り 上根岸町由来
呉竹の根岸の里は、上野山を背景にした田園風景と清流音無川の流れる静寂の地であった。江戸時代から「根岸の里の侘び住まい」といわれ多くの文人墨客が好んで住んだ。
そのむかし、この付近には大きな池があった。そして上野山のもと(根)にあったことから、すでに室町時代には根岸と呼ばれていた。江戸時代初期、根岸は金杉村に属し、いくつかの民家が建っていた。風光明媚の地であったことから文化文政(一八〇四〜一八三〇)の頃には別荘地として二百戸余りになっていた。明治二十二年(一八八九)、根岸は下谷区に編入されたあとすぐに上根岸町、中根岸町、下根岸町に分けられた。
「雀より鶯多き根岸かな」
俳人正岡子規は、明治二十五年から同三十五年まで根岸に住んだ。今、その住まいは「子規庵」として残されている。 |
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言問通り 鶯谷駅下交差点
右手には鶯谷駅から跨線橋の凌雲橋があり、この交差点から言問通りに沿って入谷朝顔市が行われ、夏の風物詩である |
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北めぐりん #24 鶯谷駅南 |
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言問通り 根岸一丁目交差点で左折、金杉通りへ |
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金杉通り 根岸三丁目交差点で右折 |
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小野照崎神社 |
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小野照崎神社
小野照崎神社の祭神は、平安初期の漢学者・歌人として有名な小野篁である。創祀の年代は不明だが、次のような伝承がある。篁は上野国司の任期を終え、帰路の途に就いた際、上野照崎(忍岡、現在の上野公園付近)の風光を賞した。仁寿二年(八五二)篁が亡くなったとき、その風光を楽しんだ地に彼の霊を奉祀した。その後、江戸時代をむかえ、寛永二年(一六二五)忍岡に東叡山寛永寺を創建するに当たり、当社を移転することとなり、坂本村の長左衛門稲荷社が鎮座していた現在地に遷した、というものである。また一説には、忍岡から孔子聖廟が昌平橋に移った元禄四年(一六九一)頃に遷座したのではないかともいう。
地獄巡りで有名な小野篁の話が出ていないのは少し残念である。 |
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小野照崎神社 下谷坂本の富士塚 |
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小野照崎神社 下谷坂本の富士塚
この塚は模造の富士山で、文政十一年(一八二八)の築造と考えられている。「武江年表」同年の項に「下谷小野照崎の社地へ、石を畳みて富士山を築く」とある。境内の「富士山建設之誌碑」によると、坂本の住人で東講先達の山本善光が、入谷の住人で東講講元の大坂屋甚助と協議して築造し、富士山浅間神社の祭神を勧請したという。
東講は富士山信仰の集団、いわゆる富士講の一つ。富士山信仰は室町末期に起こり、江戸時代中期には非常に盛んになり、江戸をはじめとして富士講があちこちで結成された。それにともない、模造富士も多数築かれ、江戸とその近郊の富士塚は五十有余を数えるに至った。しかし、いまに伝わる塚は少ない。
ここの富士塚は高さ約五メートル、直径約十六メートル。塚は富士の熔岩でおおわれ、東北側一部が欠損しているものの、原形がよく保存されている。原形保存状態が良好な塚は東京に少ないので、この塚は貴重である。 |
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小野照崎神社 神社由来 |
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小野照崎神社 神社由来 |
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北めぐりん #25 入谷駅入口 |
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入谷駅前交差点 昭和通りを渡り、金美館通りへ |
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金美館通りを東進 |
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北めぐりん #26 入谷ふれあい市場前 |