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都道 神田白山線 突き当りを左折
谷中霊園に向かうには、中央の小路を進むと言問通りの上野桜木交差点に出て、そのまま直進する。車1台やっとと狭いうえ、一方通行のためこちらからは東西めぐりんは行けない。 |
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護国院前で右折
護国院は、天海の弟子生順が、釈迦堂の別当寺として、現在の東京国立博物館の右手裏に開創した.承応二年(一六五三)・延宝八年(一六八〇)に寺地を西方へ移転し、さらに、宝永六年(一七O九)現在地に移った。延宝八年・宝永六年の移転は、それぞれ四代将軍家綱廟・五代将軍綱吉廟の建立にともなうものである.また、昭和二年、第二東京市立中学校へ現(都立上野高校)建設にともない、本堂を現在の位置に移した。 |
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護国院前で右折 |
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東西めぐりん #5 谷中清水町公園 |
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旧谷中清水町 由来案内
この地は、束叡山寛永寺創建後は寛永寺領地であったが、寛永十年(一六三三)松平伊豆守信綱が拝領した。代々松平の姓を名乗っていたが、信古の代になって大河内に改姓した。大河内信古は、豊橋藩主で七万石を領していた。明治五年(一八七二)大河内家屋敷地を一町として起立し、町名を谷中清水町と命名した。
町名の由来は、護国院前に明治前まであった清水門にちなむという。
清水門の名称の由来については、この地に清水が湧いていたためとされている。
昭和四十二年(一九六七)、住居表示の実施で本町は三分された。大部分が池之端四丁目になり、あとは同三丁目と上野公園に編入された。 |
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谷中六丁目交差点で右折、言問通りへ |
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東西めぐりん #6 旧吉田屋酒店 |
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言問通り 上野桜木交差点で左折、都道 神田白山線へ
交差点右手の小路は東京学芸大学からの近道である。小路ではあるが、都道 神田白山線である。 |
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言問通り 上野桜木交差点 旧吉田屋酒店
かって谷中六丁目の一角にあった商家建築。吉田屋酒店は江戸時代以来の老舗であった。旧店舗の建物が台東区に寄贈され、明治から昭和初期にいたる酒屋店舗の形態を後世に遺すため、昭和六十二年移築復元して、当時の店頭の姿を再現、展示している。平成元年には、一階店舗と二階部分及び道具・文書類が台東区指定有形民俗文化財となった。
棟札によれば、明治四十三年(一九一〇)に新築して、昭和十年(一九三五)に、一部改築したもの。正面は一・二階とも出桁造りで商家特有の長い庇を支え、出入り口には横長の板戸を上げ下げして開閉する揚戸を設け、間口を広く使って販売・運搬の便を図った。 |
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言問通り 上野桜木交差点 旧吉田屋酒店 |
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都道 神田白山線 大雄寺 高橋泥舟墓
高橋泥舟は幕末期の幕臣、槍術家。名は政晃。通称謙三郎。のち精一。泥舟と号した。山岡鉄舟の義兄にあたる。
佐幕、倒幕で騒然としていた文久二年(一八六二)十二月、幕府は江戸で浪士を徴集し、翌二年二月京都へ送った。泥舟は浪士取扱となったが、浪士が尊攘派志士と提携したため任を解かれた。同年一二月師範役に復職し、慶応三年(一八六七)遊撃隊頭取となる。翌四年一月「鳥羽伏見の戦」のあと、主戦論が多数を占めていた中で、徳川家の恭順を説き、十五代将軍徳川慶喜が恭順の姿勢を示して寛永寺子院の大慈院に移り、ついで水戸に転居した際には、遊撃隊を率いて警固にあたった。廃藩置県後は、要職を退き、隠棲し書を楽しんだという。
勝海舟、山岡鉄舟とともにに幕末の三舟といわれる。 |
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都道 神田白山線 大雄寺 高橋泥舟墓 |
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都道 神田白山線 道成りに左に進む
右手に直進すると谷中霊園である。 |
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都道 神田白山線 谷中霊園入口バス停の東西めぐりん |
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東西めぐりん #7 谷中霊園入口 |
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都道 神田白山線 谷中霊園界隈案内図 |
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都道 神田白山線 永久寺 仮名垣魯文墓
幕末・明治時代の戯作者、新聞記者。本名は野崎文蔵、号を鈍亭。猫々道人などといった。文政十二年(一八二九)江戸京橋の生まれ。長じて商家に奉公したが、戯作者を志し、式亭三馬や十返舎一九などの戯作を耽読、諸方を遊歴して作家生活に入った。万延元年(一八六〇)「滑稽富士詣」を書いて世に出た。
明治時代になると、当時の文明開化の世相を風刺した「西洋道中膝栗毛」、「安愚楽鍋」等の作品を発表、明治開花期の花形作家となった。 |
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都道 神田白山線 永久寺 仮名垣魯文墓 |
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都道 神田白山線 永久寺 仮名垣魯文墓 |
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都道 神田白山線 永久寺 仮名垣魯文墓 |
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都道 神田白山線 三崎坂 |
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東西めぐりん #8 三崎坂上 |