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王子 飛鳥山公園 多目的広場 |
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王子 飛鳥山公園 紅葉のモミジが美しい遊歩道
飛鳥山公園というと桜の名所であるが、意外と紅葉のモミジがあちこちに見られてきれいである。 |
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王子 飛鳥山公園 飛鳥山碑 |
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王子 飛鳥山公園 飛鳥山碑 |
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王子 飛鳥山公園 飛鳥山碑
八代将軍吉宗は、鷹狩りの際にしばしば飛鳥山を訪れ、享保五年(一七二〇)から翌年にかけて、ー二七〇本の山桜 の苗木を植栽した。元文二年(一七三七)にはこの地を王子 権現社に寄進し、別当金輪寺にその管理を任せた。このころから江戸庶民にも開放されるようになり、花見の季節には行楽客で賑わうようになった。この碑文は、吉宗が公共園地として整備したことを記念して、幕府の儒臣成島道筑(風卿・錦江)によって作成されたもので、篆額は尾張の医者山田宗純の書である。碑文の文体は中国の五経の一つである尚書(「書」または「書経」ともいう)の文体を意識して格調高く書かれており、吉宗の治世の行き届いている太平の世であることを喧伝したものと考えられる。碑文には元亨年中(ー三二ー〜三)に豊島氏が王子権現(現在の王子神社)を勧請したことから、王子・飛鳥山・音無川の地名の由来を説いて、土地の人々がこれを祀ったこと、寛永年間に三代将軍家光がこの地に改めて王子権現社に寄進した経緯などが記されている。
異体字や古字を用い石材の傷を避けて文字を斜めにするなど難解な碑文であり、「飛鳥山何と読んだか拝むなり」と川柳にも読まれたほど、江戸時代から難解な碑文としてよ く知られている。 |
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王子 飛鳥山公園 紅葉のモミジが美しい遊歩道 |
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王子 飛鳥山公園 明治三十七八年戦役記念碑
今年(平成23年)は3年がかりの司馬遼太郎の大作坂の上の雲の日露戦争編が放送されている。12月の第1、2週は旅順攻防、先週は奉天会戦で全滅シーンが繰り返された。今週は最後の日本海海戦で、このような巨大記念碑があちこちで建てられた当時の人の気持ちが良く分かる。 |
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王子 飛鳥山公園 児童エリア |
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王子 飛鳥山公園 満開に近い十月桜 |
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王子 飛鳥山公園 北区飛鳥山博物館
飛鳥山公園には北の入口から、紙の博物館、北区飛鳥山博物館、渋沢資料館がある。 |
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王子 飛鳥山公園 旧渋沢庭園 |
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王子 飛鳥山公園 旧渋沢庭園
曖依村荘跡
飛鳥山公園の一角は、渋沢栄一が、1879(明治12)年から亡くなる1931(昭和6)年まで、初めは別荘として、後には本邸として住まいした「曖依村荘」跡です。約28,000uの敷地に、日本館と西洋館をつないだ母屋の他にも色々な建物が建っていました。住居等主要部分は1945(昭和20)年4月の空襲で消失しましたが、大正期の小建築として貴重な「晩香廬」と「青淵文庫」が、昔の面影をとどめる庭園の一部とともに、よく保存されています。 |
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王子 飛鳥山公園 旧渋沢庭園 |
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王子 飛鳥山公園 旧渋沢庭園 |
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王子 飛鳥山公園 旧渋沢庭園 青淵文庫 |
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王子 飛鳥山公園 旧渋沢庭園 青淵文庫
渋沢栄一(号・青淵)の80歳と子爵に昇爵した祝いに、門下生の団体「竜門社」より寄贈された。渋沢の収集した「論語」関係の書籍(関東大震災で焼失)の収蔵と閲覧を目的とした小規模な建築である。
外壁には月出石(伊豆天城産の白色安山岩)を貼り、列柱を持つ中央開口部には、色付けをした陶板が用いられている。「竜」をデザインしたステンドグラスがはめ込まれ、色鮮やかな壁面が構成されている。内部には1階に閲覧室、記念品陳列室、2階に書庫があり、床のモザイクや植物紋様をあしらった装飾が随所に見られ、照明器具を含めて華麗な空間が表現されている。 |
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王子 飛鳥山公園 旧渋沢庭園 晩香廬 |
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王子 飛鳥山公園 旧渋沢庭園 晩香廬
近代日本の大実業家のひとり渋沢栄一の喜寿を祝い、合資会社清水組(現・清水建設(株))の清水満之助が永年の厚誼に謝して贈った小亭である。
建物は応接部分と厨房、化粧室部分をエントランスで繋いだ構成で、構造材には栗の木が用いられている。外壁は隅部に茶褐色のタイルがコーナー・ストーン状に張られ壁は淡いクリーム色の西京壁で落ち着いた淡い表現となっている。応接室の空間は勾配の付いた舟底状の天井、腰羽目の萩茎の立簾、暖炉左右の淡貝を使った小窓など、建築家田辺淳吉のきめこまかな意匠の冴えを見ることができる。なお、晩香廬の名は、バンガローの音に当てはめ、渋沢自身の詩「菊花晩節香」から採ったといわれる。 |
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王子 飛鳥山公園 旧渋沢庭園 渋沢栄一像 |
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王子 飛鳥山公園 案内図 |
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王子 飛鳥山公園 南出入口 |
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王子 飛鳥山公園 旧渋沢家 飛鳥山邸(晩香廬・青淵文庫)
飛鳥山公園の南側一帯には、日本の近代経済社会の基礎を築いた、渋沢栄一の自邸が所在していました。現在、敷地は飛鳥山公園の一部になっていますが、旧邸の庭園であった所は「旧渋沢庭園」として公開されています。
渋沢栄一は明治三十四年から昭和六年に亡くなるまでの三十年余りをこの自邸で過ごしました。当時の渋沢邸は、現在の本郷通りから「飛鳥山3つの博物館」に向かうスロープを上がった付近に出入りロとなる門があり、邸内には、和館と洋館からなる本邸の他、茶室や山形亭などの建物がありました。残念ながらこれの建物は昭和二十年の空襲で焼失してしまい、大正六年竣工の「晩香廬」と大正十四年竣エの「青淵文庫」、このニ棟の建物のみ「旧渋沢庭園」内に現存しています。「晩香廬」は、渋沢栄一の喜寿の祝いとして「青淵文庫」は傘寿と子爵への昇格の祝いとしてそれぞれ贈呈されたものです。どちらの建物も大正期を代表する建築家の一人で、清水組(現清水建設)の技師長を務めた田辺淳吉が設計監督をしています。当時の世界的なデサイン・美術の運動の影響を受けた建築であることが評価され、平成十七年、「旧渋沢家飛鳥山邸(晩香廬・青淵文庫)」として二棟が重要文化財(建築物)に指定されました。 |