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旧東海道 川崎宿 六郷の渡しと旅籠街
六郷橋を下りた所にある。
家康が架けた六郷大橋は洪水で流され、以後、実に二百年の間、渡し舟の時代が続きました。舟をおりて川崎宿に入ると、街道筋は賑かな旅龍街。
幕末のはやり唄に「川崎宿で名高い家は、万年、新田屋、会津屋、藤屋、小土呂じゃ小宮……」。なかでも万年屋とその奈良茶飯は有名でした。
○川崎宿の家並
旅龍六二軒をはじめ、八百屋、下駄屋、駕篭屋、提灯屋、酒屋、畳屋、湯屋、鍛冶屋、髪結床、油屋、道具屋、鋳掛屋、米屋など合計三六八軒。
―文久三年の宿図から―
(一八六三) |
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旧東海道 川崎宿 旧東海道の碑 |
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旧東海道 川崎宿 史跡めぐり案内
OKストアの壁に設けられており、六郷の渡しから川崎駅前を経て、八丁畷駅まで記されている。 |
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旧東海道 川崎宿 史跡めぐり案内 |
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旧東海道 川崎宿 史跡めぐり案内
六郷の渡し
慶長5年(1600)、六郷川(多摩川)に六郷大橋がかけられましたが、元禄元年(1688)大洪水で流されて以来、亨保13年(1728)年にベトナムから長崎に初めて象が来て、東海道を通って江戸へ来た時も、象は舟で川を渡りました。
明治天皇が初めて江戸に入る際は、舟を沢山出し、その上に板を並べて臨時の橋を作り、その上を通られたそうです。
万年と万年横丁
川崎で一番大きな茶屋だった「万年」は江戸側から川崎宿へ入ってすぐの所にありました。万年前から川崎大師への参詣客が通った道には、新田屋、会津屋などの茶屋もあり
大変賑わっていて、「万年横丁」と呼ばれました。
万年の名物だった奈良茶飯は、「東海道中膝栗毛」という当時のベストセラー本の中で、弥次さん喜多さんも食べたほど有名でした。
やがて宿泊もまかなうようになった万年には、幕末には大名や駐日総領事のハリスなども宿泊しました。 |
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旧東海道 川崎宿 本町交差点で大師道(国道409号)を渡る
国道409号は右にある市役所通りとの交差点からは府中街道となり、左折すると川崎大師を経て東京アクアラインにつながる。 |
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旧東海道 川崎宿 田中本陣(下の本陣)
川崎宿に三つあったといわれる本陣の中で、最も古くからあった田中本陣は、寛永五年(一六二八)に設置されている。田中本陣はその場所が最も東、すなわち江戸に近いため「下(しも)の本陣」ともいわれた。
本陣は大名や幕府の役人、勅使など武士階級専用の宿であった。その構造は、武士階級を宿泊させるために、当時一般の民家には許されなかった門や玄関構え、上段のある書院など、書院造りを取り入れた空間と、本陣の主(宿場の中でも財力があり、信頼のおける名家などが幕府から選ばれた)の一家の生活空間との二つを併せ持っていた。建物の改造や、再建には幕府や諸藩から助成を受け、半官半民的な運営がなされた。
本陣は参勤交代の導入により、多くの大名が街道を旅するようになるとともに栄えたが、江戸後期には、大名家の財政難やら参勤交代の緩和により、衰えも目立った。安政四年(一八五七)、アメリカ総領事ハリスが、田中本陣の荒廃ぶりを見て、宿を万年屋に変えたことは有名である。 |
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旧東海道 川崎宿 宝暦十一年(一七六一年)の大火
川崎宿200年で最大の火災である。小土呂から六郷渡し場まで町並みはほぼ全焼。再三の火災から立ち直った川崎宿であるが、今、宝暦以前の歴史文献は見当たらない。 |
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旧東海道 川崎宿 宗三寺
京急川崎駅の裏にあり、墓所には大阪方の浪人で元和元年(1615年)に川崎に土着した波多野一族の墓や、遊女の供養碑がある。探したが、見当たらなかった。 |
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旧東海道 川崎 宗三寺
宗三寺は、中世の河崎庄において信仰を集めた勝福寺の後身とみられる宿内一の古刹である。寺内には、かつて宿の賑わいの中で働いた飯盛り女を供養する石造物が今に残る。 |
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旧東海道 砂子一丁目交差点
右折すると京急本線川崎駅に向かう。 |
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旧東海道 砂子交差点で右折、市役所通り(県道9号)へ |
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市役所通り(県道9号) 正月の松飾り販売露店
まだ準備中という雰囲気である。 |
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市役所通り(県道9号) 川崎駅前東交差点 |
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川崎駅前東交差点での風景 |
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JR 京浜東北線・根岸線 川崎駅 |
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JR 京浜東北線・根岸線 川崎駅 |