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大久保通り 新大久保駅先の交差点で左折
大久保通りを東に戻ってすぐの交差点である。 |
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山手線沿いの区道を北上
山手線のガードを通りすぎてすぐの交差点で左折する。昔は和式旅館のラブホテルが建ち並ぶごちゃごちゃした路地だったが、広々とした区道が高田馬場駅まで出来ている。後方にロッテの工場があり、昔はチューイングガムの香料がかなり匂っていたが、今は全くしない。 |
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山手線沿いの区道を北上 |
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山手線沿いの区道を北上 大久保スポーツプラザ |
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山手線沿いの区道を北上 大久保スポーツプラザ入口交差点 |
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山手線沿いの区道を北上 点字図書館南交差点
通っていた都立高校は、明治通りを挟んで母校の大学の斜め向かいだった。利用していた駅は高田馬場で、写真のような立派な道はなく、路地を通っていたが、点字図書館は少し大きめの民家に過ぎなかった。しかし、知る人によれば点字図書館は有名な施設だそうである。 |
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日本児童教育専門学校 志賀直哉旧居跡
点字図書館南交差点の先にある日本児童教育専門学校の壁に設けられている。
ちなみに文中の世田谷に引っ越した先で孫が中学の同級生で、弟の同級生には東条英機の孫がいた。 |
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日本児童教育専門学校 志賀直哉旧居跡
文豪志賀直哉(明治十六年二月ニ十日〜昭和四十六年十月二十一日(一八八三年〜一九七一年))は、その生涯において転居ニ十数回に及んだが、その居住した場所場所に材をと
った名作を発表している。
氏は、昭和十三年(一九三八年)四月より昭和十五年(一九四〇年)五月までの二年余この地(当時、淀橋区諏訪町)に夫人並びに六人の子女と共に居住した。
氏はこの地において大作「志賀直哉全集」(全九巻)を完結発表した他、「病中夢」「泉鏡花の憶ひ出」等の名作を次々と発表した。
なお五月、当地より世田谷区新町に転居し創作活動を続けた。
平成二年九月一日
志賀直哉ゆかりの地を記念し、
平成二年(一九九〇年)八月これを記す
日本児童教育専門学校 |
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高田馬場駅前交差点で左折 |
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西武 新宿線 高田馬場駅
西武の高田馬場駅は東口広場前にあり、JRの早稲田口は早稲田通り沿いにある。 |
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JR 山手線 高田馬場駅 早稲田口 |
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高田馬場駅 早稲田口 手塚治虫 所縁の壁画
高田馬場駅のガードには、リボンの騎士や、鉄腕アトムなど手塚治虫に所縁の主人公が大きな壁画になっており、山手線の出発メロディーは鉄腕アトムである。
これは手塚プロが高田馬場にあったためで、因みに、アトムは高田馬場の科学技術省で天馬博士により作られた、とされている。 |
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早稲田通り 高田馬場駅前の交差点で左折
交差点名はないが、新大久保駅から歩いてきた区道の続きである。 |
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山手線沿いの区道を北上 結婚式場 セレス高田馬場
第一印象はパリのノートルダム寺院であるが、もちろんその重厚さはない。 |
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山手線沿いの区道を北上 神田川に架かる神高橋 |
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突き当りの新目白通りを渡り、右折
右手に見えるバーミヤンの先の角で左折する。 |
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新目白通り バーミヤンの先の角で左折 |
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突き当りで左折、学習院下通りを西進 |
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学習院下通り 学習院下交差点で右折、学習院椿の坂へ |
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学習院椿の坂を北上 切手の博物館 |
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学習院椿の坂を北上 切手の博物館 |
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学習院椿の坂を北上
坂を上り切ると目白通りで、その左に目白駅がある。 |
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JR 山手線 目白駅 |