万歩計 トップ 首都圏の鉄道 目次 山手線 外回りH2502 目次 日暮里駅〜上野駅〜東京駅 目次 上野駅〜秋葉原駅〜東京駅 目次  アメ横〜御徒町駅〜秋葉原駅    ページ ラスト 


万歩計



(Since H14-10-28)

目次









掲示板(一言どうぞ)


秋葉原駅〜神田駅〜東京駅

【関連サイト】   山手線 内回りH2009


 直前のページに戻ります。

写真の一覧表へ 

アトレ秋葉原1の南側沿いを歩き、中央通りへ アトレ秋葉原1の南側沿いを歩き、中央通りへ 
中央通り 万世橋交差点 中央通り 万世橋交差点 
中央通り 万世橋交差点 旧石丸電気(現エディオン) 中央通り 万世橋交差点 旧石丸電気(現エディオン) 

秋葉原の伝統ある電器店も次々に閉鎖され、吸収合併されている。ラオックスは中国資本に、ソフマップはビックカメラ、石丸電気もエイデンに吸収されてエディオンとなった。
中央通り 須田町交差点で靖国通りを渡る 中央通り 須田町交差点で靖国通りを渡る 
中央通り 町名由来 神田須田町一丁目 中央通り 町名由来 神田須田町一丁目 

 江戸の町の整備が本格的に始まったのは慶長年間(1596〜1615)に入ってからのことです。それまで、須田村と呼ばれていた神田川周辺も農村から町人の町に生まれ変わりました。しかし、昔からの地名は残されたようで、明暦三年(1657)の『新添江戸之図』には「すた町」と記されています。
 江戸時代の須田町は、現在の神田須田町一丁目とだいたい同じ範囲を指していたようです。また、文政七年(1824)の『江戸買物独案内』を見ると、江戸期の町内には、菓子屋や薬屋、塩や油を扱う問屋、神具や仏具を売る店など、さまざまな商品を扱う店があったことがわかります。現在の町内にも、東京都選定の歴史的建造物に指定されるような老舗の商店が数多く営業しています。
 さらに明治以降、数多くの繊維関連の問屋が軒を連ねるようになりました。その理由について、専門家のなかには、神田川南岸の柳原土手(現在の和泉橋付近)で江戸期に開かれていた古着市の伝統を引き継いだためと考える人もいます。
 つまりこの周辺は、江戸期以来の“商いの町”としての伝統が、いまだに生き続けている土地なのです。
中央通り 町名由来 神田須田町一丁目 中央通り 町名由来 神田須田町一丁目 
中央通り 神田駅北交差点で神田警察通りを渡る 中央通り 神田駅北交差点で神田警察通りを渡る 
JR 山手線 神田駅 JR 山手線 神田駅 
中央通り 今川橋交差点で右折、神田金物通りへ 中央通り 今川橋交差点で右折、神田金物通りへ 
神田金物通り 鍛冶一丁目界隈 神田金物通り 鍛冶一丁目界隈 

 江戸時代初期の慶長八年(1603)、幕府は江戸の町割(区画整理)を実施しました。この時、新たに誕生した町の一つが鍛冶町です。新しい町名は、すぐに江戸っ子の間でも定着したようで、明暦三年(1657)の『新添江戸之図』や『寛文新板江戸絵図』でも「かち町」あるいは「かじ丁」という町名が見受けられます。
 ちなみに「鍛冶」という名は、町が生まれた当初、江戸幕府お抱えの鍛冶方棟梁だった高井伊織がこの地を幕府から拝領して屋敷を構えたことに由来するとされます。高井家は、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野の「関八州」の鍛冶頭を務め、その配下にある数多くの鍛冶職人たちもこの地に集まり、住むようになりました。
 江戸時代に刊行され、大名や旗本の氏名・系図・家紋・御用達町人の氏名などが記された『武鑑』には町内の住人として、文化年間(1804〜1818)だけでも、高井家をはじめ、金属加工を生業とする職人頭の名前が多く記録されています。
 ほかにも、鍛冶に関連した仕事をする御用職人が多かったようで、文政7年(1824)の『江戸買物独案内』には、刃物やくぎなどを扱う卸売業者がいたことも記されています。
 鍛冶町は、江戸時代の武士や庶民にとって必要不可欠な金属製品を提供し、日常生活をささえ続けた街だったのです。
 神田金物通りを西進 神田金物通りを西進 
 神田金物通り 神田駅南口交差点でJRの高架を通り抜ける 神田金物通り 神田駅南口交差点でJRの高架を通り抜ける 

3階建てで、1階は山手線などの在来線、2階は東北新幹線で、工事中の3階部分は東北縦貫線である。
神田金物通り 龍閑橋交差点で左折、外堀通りへ 神田金物通り 龍閑橋交差点で左折、外堀通りへ 
外堀通り 龍閑橋の歴史と由来 外堀通り 龍閑橋の歴史と由来 

 もともと、神田の堀に架けられていた龍閑橋は、堀を埋め立てることで必要なくなりました。同じころ、この付近に開かれた新しい川に、いらなくなった橋をそのまま架けたのが、現在の龍閑橋の地名の由来となっています。まだ無名だったその新川は、橋の名前にちなんで「龍閑川」と名付けられました。今は無き龍閑川は、その昔、神田と日本橋の両区を分割するものでした。
 また、「龍閑」という名については、龍閑川の西端にあった町に、旧幕府坊主の「井上龍閑」と言う人の家があったことに由来します。
外堀通り 龍閑橋の歴史と由来 外堀通り 龍閑橋の歴史と由来 
外堀通り 新常盤橋交差点で江戸通りを渡る 外堀通り 新常盤橋交差点で江戸通りを渡る 
外堀通り 日本銀行本店 外堀通り 日本銀行本店 
外堀通り 常盤橋交差点 貨幣博物館 外堀通り 常盤橋交差点 貨幣博物館 
外堀通り 日本橋川に架かる一石橋 外堀通り 日本橋川に架かる一石橋 
外堀通り 日本橋川に架かる一石橋 外堀通り 日本橋川に架かる一石橋 

 一石橋は寛永年間(一六二四〜一六四七年)またはそれ以前から存在した橋である。左の写真に見られる一石橋の姿は、大正十一年に架け替えられた当時の姿で、アーチ部分の石積み、重厚な石の高欄や親柱、照明などの細部に至るまでデザインの施された橋であり、当時の時代を感じさせる西洋的でモダンな印象をかもし出している。
 一石橋の上流半分は、昭和四十八年にスチール製の桁橋に架け替えられ、平成十一年には下流側半分についても架け替え工事が行われて今日に至っている。大正時代当時の一石橋の姿を残しているのは上流側の大きい親柱と小さい親柱(当時の袖柱)のみとなり、残りの施設については、平成十一年の下流側架け替え工事に伴い、当時の姿と印象を残し継承する意味で新たに造り替えられている
外堀通り 呉服橋交差点で永代通りを渡る 外堀通り 呉服橋交差点で永代通りを渡る 

外堀通り沿いにあった第一鉄鋼ビル、第二鉄鋼ビルが再開発で取り壊されたため、今まで見えなかった後方の丸の内トラストタワーN館が壁のように聳え立って見える。
外堀通り 呉服橋交差点で永代通りを渡る 外堀通り 呉服橋交差点で永代通りを渡る 
JR 山手線 東京駅 八重洲北口 JR 山手線 東京駅 八重洲北口 



 
万歩計 トップ 首都圏の鉄道 目次 山手線 外回りH2502 目次 日暮里駅〜上野駅〜東京駅 目次 上野駅〜秋葉原駅〜東京駅 目次  アメ横〜御徒町駅〜秋葉原駅    ページ トップ