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真姿の池湧水群・お鷹の道〜整備中の史跡公園〜七重塔跡

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真姿の池湧水群に向かう 真姿の池湧水群に向かう 

「史跡武蔵国分寺跡 北辺区画溝」の碑で、この下に溝があった。
真姿の池湧水群に向かう 真姿の池湧水群に向かう 
突き当りの細道を下る 突き当りの細道を下る 
真姿の池湧水群 真姿の池湧水群 

6年前は、土曜にもかかわらず人っ子一人国分寺にはいなかった。色々と史跡公園として整備されてきたせいか、結構多くの観光客を見かけた。
真姿の池湧水群 真姿の池湧水群 

奥まった所で水が湧き出しているのがよく分かる。
真姿の池湧水群 真姿の池湧水群 

昭和60年に環境省の名水百選に選ばれ、水路沿いの遊歩道と池周辺に複数の湧水があることから、「お鷹の道・真姿の池湧水群」と名付けられた。平成10年には国分寺崖線湧水群の中の代表的な湧水であるとして、東京都名勝に指定され、保存が図られている。
地層断面模式図で示すように、長い時間をかけて自然が作り上げたローム層や礫層などの地層を多摩川の流れが削ってできた国分寺崖線の下から湧き水がでている。
この辺りでは「水口八十八ヵ所」という言葉があり。多くの湧水源があった。しかし、都市化などにより、枯渇したり埋め立てられた結果、湧水源も湧出量も少なくなっている。
「真姿の池」の名のいわれは、約千年前の平安時代、玉造小町という女性の病気が国分寺の薬師如来の霊験で治り元の姿に戻ったことによると伝えられている。
真姿の池湧水群 真姿の池湧水群 

 真姿の池は、都内では青梅市の御岳渓流とともに環境庁の「名水百選」に選定された『お鷹の道・真姿の池湧水群』の一部であり、東京都の都市計画国分寺緑地にも指定されている。また周辺は東京都の国分寺崖線緑地保全地域に指定されている。
 真姿の池の名の由来は、嘉祥元年(八四八)不治の病に苦しんだ玉造小町が、病気平癒祈願のため国分寺を訪れて二一日間参詣すると、一人の童子が現れ、小町をこの池に案内し、この池の水で身を清めるようにと言って姿を消したので、そのとおりにしたところ、たちどころに病は癒え、元の美しい姿に戻った。
 それから人々はこの池を真姿の池と呼ぶようになったという伝説からきている。真姿の池は『新編武蔵風土記稿』に「広さニ間四方許、池中の孤嶼に弁天の祠宇を置、この池水も田地へ灌く」とある。
 周辺の雑木林は、下草の刈り払いが行われて管理が行き届いており、国分寺崖線の雑木林景観がよく保存されている。国分寺崖線とは国分寺から小金井・三鷹・調布・狛江を経て世田谷の等々力渓谷に至る標高差約十五メートルほどの崖線で「ハケ」と呼ばれている。東京を代表する湧泉の価値を文化財として評価された最初の自然地理的名勝である。
右折し、お鷹の道へ 右折し、お鷹の道へ 
右折し、お鷹の道へ 右折し、お鷹の道へ 

江戸時代より市内の村は尾張徳川家の御鷹場に指定されていた。湧水の清流に沿う小径を人は”お鷹の道”と呼ぶ。
お鷹の道を西進 お鷹の道を西進 
武蔵国分寺跡 周辺案内 武蔵国分寺跡 周辺案内 

結論から言うと、この図をしっかり見ておけば、余計な所を回らず、効率的に見物できた。6年前にはこのような施設はなかった。
武蔵国分寺跡資料館 長屋門 武蔵国分寺跡資料館 長屋門 
史跡の駅 史跡の駅 

資料館前にあり、休憩所と、資料館の入場券販売所で、ガイドもしてくれる。

ガイドに国分寺を見たい、と言ったら史跡公園に行くよう言われた。周辺案内図を持っていれば、国分寺はお鷹の道をそのまま進めばよかった。他の観光客同様、国分寺史跡全体を見たい、と勘違いされたようである。
史跡の駅から出て右折、元町通りへ 史跡の駅から出て右折、元町通りへ 
元町通り 史跡公園 元町通り 史跡公園 

ガイドの案内通り、元町通りに出て少し歩くと史跡公園がある。
整備中の史跡公園 整備中の史跡公園 

史跡公園と言っても、至る所発掘中で立ち入り禁止とか、工事中で、何も無い。いわば広大な枯れ芝生の公園である。

国分寺の姿かたちもなく、ただ広大な芝生を歩きまわった。
整備中の史跡公園 整備中の史跡公園 

奈良時代中期頃、聖武天皇は仏の力で国を安定させるために諸国に国分寺の建立を命じました。武蔵国では、都と国府(現府中市内)を結ぶ古代官道「東山道武藏路」沿いの東に僧寺、西に尼寺が計画的に配置されました。武蔵国分寺跡は、全国の国分寺跡と比べても規模が大きく、その歴史的重要性は認められており、大正11年に国指定史跡に指定されています。
 国分寺市では、郷土の歴史を語り継ぐよりどころであるとともに、豊かな自然を残す場として市民に広く親しまれてきた武蔵国分寺跡を歴史公園として整備・活用するための事業を進めています。既に市立歴史公園「武蔵国分尼寺跡」(平成15年開園)として整備された尼寺地区に引き続き、平成15年度より僧寺地区の保存整備事業に着手しています。
整備中の史跡公園 七重塔跡 整備中の史跡公園 七重塔跡
 


さんざん枯れ芝生を歩いて、東の外れにやっと見つけたものである。
整備中の史跡公園 七重塔跡 整備中の史跡公園 七重塔跡
 


 国分寺造営の詔に「造塔の寺は国の華たり」と象徴的に記されている塔は「金字金光明最勝王経」を安置する国分寺の重要な施設でした。
 この塔は「続日本後紀」によって承和二年(八三五)に雷火で焼失し、十年後に男衾郡(埼玉県比企郡)の前大領(郡の長官)の壬生吉志福正がその再建を願いでて許可されたことが知られています。
 昭和三九年の発掘調査の結果、塔基壇が修復されていることや礎石の下に瓦片が大量に詰め込んでいることなどが明らかになり、このことが証明されました。
 塔の再建にあたっては北方建物の新築・講堂の増築・寺地内付属諸院の整備なども併せて行ったようで創建以来の本格的な造営事業に発展したと推察されます。
整備中の史跡公園 七重塔跡 整備中の史跡公園 七重塔跡
 
整備中の史跡公園 七重塔跡 整備中の史跡公園 七重塔跡
 
整備中の史跡公園 七重塔跡 整備中の史跡公園 七重塔跡
 
整備中の史跡公園 整備中の史跡公園 

たまたま工事中の係員に国分寺を見たい、と言って立川までのウォーキング用の粗い地図を示したら、全く反対方向に来ていることが分かった。現在地は南東の角で、国分寺は北西の角である。



 
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