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中央通り 神田駅北口交差点で神田警察通りを渡る 中央通り 神田駅北口交差点で神田警察通りを渡る 
中央通り 須田町交差点で靖国通りを渡る 中央通り 須田町交差点で靖国通りを渡る 

中央通りは交差点で道なりに右に向かう。
 中央通り 中央線ガード手前で左折、JR神田万世橋ビルへ 中央通り 中央線ガード手前で左折、JR神田万世橋ビルへ 
中央通り 中央線ガード手前 JR神田万世橋ビル 中央通り 中央線ガード手前 JR神田万世橋ビル  

この一帯は以前鉄道博物館があった。
中央通り 中央線ガード手前 JR神田万世橋ビル 中央通り 中央線ガード手前 JR神田万世橋ビル  

震災復興と万世橋

明治5年(1872)に筋違見附が取り壊され、翌年にその石材を再利用して、筋違橋の場所にアーチ二連の石造りの橋が完成した。この橋は、当時の東京府知事大久保忠寛が萬世橋(よろずよばし)と命名したが、次第に「まんせいばし」という音読みの方が一般化した。さらに明治29年(1896)に萬世橋東側に木橋を架けて馬車鉄道が開通する。
 明治36年(1903)に現在の位置に新しい万世橋が架け直され、元万世橋と名を変えた上流の眼鏡橋の方は、後に撤去された。この新しい万世橋は、路面電車が走るなど東京の名所となったが、大正12年(1923)の関東大震災で被災し、昭和5年(1930)に長さ26m,幅36m,石及びコンクリート混成のアーチ橋に架け直された。
 現在神田川に架けられている橋の多くは、震災復興橋梁と呼ばれる大正末年から昭和初期に架けられたもので、各橋は地域性を踏まえたデザインで造られたという。トラスドアーチ橋の聖橋、鋼ラーメンゲルバー桁橋の御茶の水橋、ヒンジアーチ橋の和泉橋と美倉橋など、神田川にある震災復興橋梁は、様々な構造で造られ、親柱や欄干のデザインに特徴を見いだすことができる。
中央通り 中央線ガード手前 JR神田万世橋ビル 中央通り 中央線ガード手前 JR神田万世橋ビル  
神田川沿い 旧万世橋駅跡 マーチエキュート神田万世橋 神田川沿い 旧万世橋駅跡 マーチエキュート神田万世橋 

マーチエキュート神田万世橋は、旧万世橋駅のホームと階段遺構を利用した2階建ての商業施設で、一昨年(平成25年)の9月14日に開業した。

営業は11時からであり、少し時間をつぶす必要がある。最初に来た時は時間がありすぎて入館を諦め、2度目は中央通りの向かいにある「肉の万世」でかなり早目の昼食をとって時間つぶしをせざるを得なかった。
神田川沿い 旧万世橋駅跡 マーチエキュート神田万世橋 神田川沿い 旧万世橋駅跡 マーチエキュート神田万世橋 
神田川沿い 旧万世橋駅跡 マーチエキュート神田万世橋 神田川沿い 旧万世橋駅跡 マーチエキュート神田万世橋 

アーチごとに一つの店であり、他の店に行くための通路が見当たらない。
神田川沿い 旧万世橋駅跡 マーチエキュート神田万世橋 神田川沿い 旧万世橋駅跡 マーチエキュート神田万世橋 

mAAchが何を意味するのか、調べても分からなかった。
神田川沿い 旧万世橋駅跡 マーチエキュート神田万世橋 神田川沿い 旧万世橋駅跡 マーチエキュート神田万世橋 

一見通路に品物が展示されているかのような店もある。
神田川沿い 旧万世橋駅跡 マーチエキュート神田万世橋 神田川沿いのオープンデッキ 神田川沿い 旧万世橋駅跡 マーチエキュート神田万世橋 神田川沿いのオープンデッキ 

下流側には万世橋が見える。オープンデッキではあるが、道幅は狭く、すれ違いが精一杯である。できればオープンテラス風に椅子やテーブルがあるといいと想う。
神田川沿い 旧万世橋駅跡 マーチエキュート神田万世橋 神田川沿いのオープンデッキ 神田川沿い 旧万世橋駅跡 マーチエキュート神田万世橋 神田川沿いのオープンデッキ 

左の上流側には中央線の昌平橋鉄橋や、神田川に架かる昌平橋が見える。
中央通り  神田川に架かる万世橋 中央通り  神田川に架かる万世橋 
中央通り  万世橋交差点で左折、国道17号へ 中央通り  万世橋交差点で左折、国道17号へ 

交差点から先は国道17号から分岐し、都道437号の中央通りとなり、秋葉原電気街を通る。
国道17号 神田川沿いに西進 国道17号 神田川沿いに西進 
国道17号 昌平橋交差点を渡り、外堀通りへ 国道17号 昌平橋交差点を渡り、外堀通りへ 

国道17号はこの交差点で右折し、明神坂下交差点で左折して神田明神に向かう。左から来る外堀通りは左折(写真では直進方向)して湯島聖堂(旧 昌平黌)に向かう。
 外堀通り 神田川に架かる昌平橋北詰 外堀通り 神田川に架かる昌平橋北詰 
 外堀通り 神田川に架かる昌平橋北詰 外堀通り 神田川に架かる昌平橋北詰 

神田旅籠町

 この周辺は、かつて神田旅籠町と呼ばれていました。
 昌平橋の北側にあたるこの地は、中山道の第一の宿場である板橋宿、日光御成街道の宿場町である川口宿への街道筋として、旅籠が数多く立ち並んでいたため、「旅籠町」と呼ばれるようになったと伝えられています。
 江戸幕府は、五街道のなかでも、遠く京都に通じる東海道と中山道の整備にとくに力を入れていました。また、日光御成街道は将軍が日光参拝の際、必ず通った街道で、現在の国道122号にほぼ相当します。こうした二つの重要な街道の拠点となる町が旅籠町だったのです。
 しかし、天和二年(1682年)に江戸で大火事が起こります。浄瑠璃や歌舞伎でも有名な「八百屋お七」の大火です。もともとあった旅籠町はこの火災で類焼し、北側の加賀金沢藩邸跡地に替地を与えられました。そして元禄七年(1694年)には、浅草御門の普請のため、馬喰町・柳原周辺の町が代地を与えられ移転しています。これを機に旅籠町にも一丁目と二丁目ができました。さらに、明治二年(1869年)には、昌平橋と筋違橋の北側にあった幕府講武所付町屋敷が神田旅籠町三丁目と改称されました。
 さて、旅籠町の由来となった旅籠ですが、幕末のころにはほとんど姿を消しています。『諸問屋名前帳』によれば、嘉永(1848年〜1854年)のころまで残っていた旅籠は、わずか一軒だけとなり、代わりに米や炭、塩、酒を扱う問屋が増えていたことがわかります。街道筋の宿場町として誕生した旅籠町は、その後、活気あふれる商人の町として成長をとげたのです。
 外堀通り 神田川に架かる昌平橋北詰 外堀通り 神田川に架かる昌平橋北詰 

昌平橋

 昌平橋の架設はきわめて古く、寛永年間(一六二四〜四四)と伝えられています。この橋は、一口橋(芋洗橋)、相生橋などと呼ばれたこともあります。一口橋の名は、この橋の南側を西に向かって坂を登ったところに一口稲荷神社(今の太田姫稲荷神社)があり、それにちなんで呼ばれていました。
 『御府内備考』には、「筋違の西の方にて神田川に架す。元禄の江戸図には相生橋とあり、聖堂御建立ののち、魯の昌平郷の名かたどり、かく名付給ひしなり。或人の日記に元禄四年二月二日、筋違橋より西の方の橋を、今より後昌平橋と唱ふべきよし仰下されけり、是までは相生橋、また芋洗橋など呼びしと云々」とかかれています。すなわち、元禄四年(一六九一)将軍綱吉が湯島に聖堂を建設したとき、相生橋(芋洗橋)と呼ばれていたこの橋は、孔子誕生地の昌平郷にちなんで昌平橋と改名させられました。明治維新後に相生橋と改められましたが、明治六年(一八七三)に大洪水で落橋、同三二年(一八九九)再架してまた昌平橋と復しました。
 現在の橋は、昭和三年(一九二八)十二月八日に架設されたものです。
外堀通り 外神田二丁目交差点 外堀通り 外神田二丁目交差点 
外堀通り 湯島聖堂(旧 昌平黌)手前 古跡 昌平坂 外堀通り 湯島聖堂(旧 昌平黌)手前 古跡 昌平坂 
外堀通り 湯島聖堂(旧 昌平黌)手前 古跡 昌平坂 外堀通り 湯島聖堂(旧 昌平黌)手前 古跡 昌平坂 

左の石垣は湯島聖堂(旧 昌平黌)の東端で、一方通行の坂を上って行くと神田明神手前の国道17号に出る。



 
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