万歩計 トップ 首都圏の鉄道 目次 中央線快速H2703 目次 東京駅〜四ツ谷駅〜新宿駅 目次  東京駅〜神田駅〜湯島聖堂 目次  神田駅〜マーチエキュート神田万世橋〜湯島聖堂 御茶ノ水駅〜明大通り〜靖国通り  ページ ラスト 


万歩計



(Since H14-10-28)

目次









掲示板(一言どうぞ)


湯島聖堂(旧 昌平黌)散策H270324

【関連サイト】   中央線快速H2202
有名神社 湯島聖堂


 直前のページに戻ります。

写真の一覧表へ 

外堀通り 相生坂(昌平坂)下 湯島聖堂(旧 昌平黌) 仰高門(正門)前 外堀通り 相生坂(昌平坂)下 湯島聖堂(旧 昌平黌) 仰高門(正門)前 

神田川対岸の駿河台の淡路坂と並ぶので相生坂という。 『東京案内』に、「元禄以来聖堂のありたる地なり、南神田川に沿いて東より西に上る坂を相生坂といい、相生坂より聖堂の東に沿いて、湯島坂に出るものを昌平坂という。昔はこれに並びてその西になお一条の坂あり、これを昌平坂といいしが、寛政中聖堂再建のとき境内に入り、遂に此の坂を昌平坂と呼ぶに至れり」とある。そして後年、相生坂も昌平坂とよばれるようになった。

 昌平とは聖堂に祀られる孔子の生地の昌平郷にちなんで名づけられた。
外堀通り 相生坂(昌平坂)下 湯島聖堂(旧 昌平黌) 仰高門(正門)前 案内 外堀通り 相生坂(昌平坂)下 湯島聖堂(旧 昌平黌) 仰高門(正門)前 案内 

 寛永九年(一六三二)、尾張藩主徳川義直 林道春(羅山)をして、上野忍ヶ丘に先聖殿を造営せしめしに始まる。その回禄(火災)の災に罹るや、元禄三年(一六九〇)、将軍綱吉之を今の地に移して、大成殿と称せり。後、寛政十一年(一七九九)大成殿及び杏壇・入徳・仰高諸門を再建し、明治維新の際、大學を此地に置くに及び、一旦孔子以下の諸像を撤去せしも、後、旧に復せり。
 建造物は暫く東京博物館の一部に充てたりしが、大正十二年(一九二三)九月一日、関東大震災の為、入徳門・水屋等を除くの外、悉く焼亡せしを昭和十年(一九三五)四月四日鐡筋混凝立構造に依りて原型に復せり。
湯島聖堂(旧 昌平黌) 仰高門(正門) 湯島聖堂(旧 昌平黌) 仰高門(正門) 
湯島聖堂(旧 昌平黌) 仰高門(正門)前 案内図 湯島聖堂(旧 昌平黌) 仰高門(正門)前 案内図 

■湯島聖堂と孔子
 孔子は、2500年ほど前、中国の魯の昌平郷(現山東省濟寧市曲阜)に生まれた人で、その教え「儒教」は東洋の人々に大きな影響を与えた。儒学に傾倒した徳川五代将軍綱吉は、元禄3年 (1690)この地に「湯島聖堂」を創建、孔子を杷る「大成殿」や学舎を建て、自ら「論語」の講釈を行うなど学問を奨励した。

■昌平坂学問所跡
 寛政9年(1797)幕府は学舎の敷地を拡げ、建物も改築して、孔子の生まれた地名をとって「昌平坂学問所」(昌平黌ともいう)を開いた。
 学問所は、明治維断(1868年)に至るまでの70年間、官立の大学として江戸時代の文教センターの役割を果たした。
 学問所教官としては、柴野東山、岡田寒泉、尾藤二洲、古賀精里、佐藤一齋、安積艮斎、鹽谷宕陰、安井息軒、芳野金陵らがおり、このうち佐藤一齋、安積艮斎らはこの地が終焉の地となっている。

■近代教育発祥の地
 明治維新により聖堂は新政府の所管となり、明治4年(1871)に文部省が置かれたほか、国立博物館(現東京国立博物館・国立科学博物館)、師範学杖(現筑波大学)、女子師範学校(現お茶の水女子大学)、初の図書館「書籍館館」(現国立国会図書館)などが置かれ、近代教育発祥の地となった。

■現在の湯島聖堂
 もとの聖堂は、4回の江戸大火に遭ってその都度再建を繰り返すも、大正12年(1923)関東大震災で焼失した。その後「假聖堂」を営み、昭和10年(1935)鉄筋コンタリート造で寛政の旧に依って再建され、今日に至っている。入徳門は宝永元年(1704)に建てられたものがそのまま残っており、貴重な文化財となっている。
湯島聖堂(旧 昌平黌) 斯文会館 湯島聖堂(旧 昌平黌) 斯文会館 
湯島聖堂(旧 昌平黌) 斯文会館前 熱中症計はほぼ安全 湯島聖堂(旧 昌平黌) 斯文会館前 熱中症計はほぼ安全 

現在時刻は11:25で、熱中症計の温度は22.0℃、湿度は低湿度のため測定不可能である。

3月下旬で時折強い北風が吹くものの歩くには暑すぎ、ブルゾンを脱いだ。
湯島聖堂(旧 昌平黌) 仰高門からの突き当りにある孔子銅像建立ノ記の石碑と楷樹 湯島聖堂(旧 昌平黌) 仰高門からの突き当りにある孔子銅像建立ノ記の石碑と楷樹 

正面に孔子銅像建立ノ記の石碑と楷樹がある。右折すると孔子像があり、左折して階段を上ると大成殿に向かう。

ここでカメラの電池が切れ、撮影したはずの孔子像がなかった。
湯島聖堂(旧 昌平黌) 孔子銅像建立ノ記の石碑 湯島聖堂(旧 昌平黌) 孔子銅像建立ノ記の石碑 

前半は孔子の来歴やその功績を、後半に昭和50年に台湾の台北ライオンズクラブから寄贈されたことが記されている。

孔子ハ約二千五百年前ノ春秋時代ノ魯ノ國ノ人デアル幼ニシテ父ヲ喪ヒ下級官吏ヨリ身ヲ起シ國王定公ニ用ヒラレ大夫トシテ國政ニ参與シテ十數年大イニ治績ヲ擧ゲタガ後ニ意見ガ合ハズ退任シ門弟ト共ニ諸國ヲ周遊シテ容レラレズ晩年故郷ニ歸リ人ノ人タル所以ノ道ヲ説イテ七十餘歳デ逝去シタソノ子孫ハ治亂興亡ヲ經テモ相傳ヘテ直系七十七代孔徳成ニ至ツテ居テソノ孔子廟ト孔家歴代ノ墳墓ハ山東省ノ曲阜ニ今猶嚴然トシテ存シテ居ル孔子ノ言行録デアル論語ハ今日ても廣ク世界中ニ讀マレテヰルカクノ如キハ他ニ比類ガナイ今ヤ洋ノ東西ヲ問ハズ人類ガ擧ゲテ混迷ニ陥ル時ニ萬世ノ師表タル孔子ノ忠恕ノ道ヲ傳ヘ仁義ノ徳ヲ明ラカニスルノハ喫緊ノコトデアリマタ吾人ノ責務デアル

コノ孔子ノ銅像ハ昭和四十九年臺北城中らいおんずくらぶ周宏基會長等ガ湯島聖堂ニ参拝シ元禄以来三百年ノ由緒アル史跡ニ感銘ヲ受ケ國立臺灣師範大學開明徳教授ニ依嘱製作シ寄贈シタモノデ唐ノ呉道子ノ筆ト傳ヘル孔子畫像ヲ基調トシテ鋳造シ昭和五十年十一月三日文化節ニ建立シタ丈高十五尺重量ニ噸ノ世界最大ノ孔子像デアル茲ニ聊カ建立ノ由來ヲ記シ世ニ傳ヘル
湯島聖堂(旧 昌平黌) 楷樹 湯島聖堂(旧 昌平黌) 楷樹 

楷樹の由来

 楷は曲阜にある孔子の墓所に植えられている名木で、初め子貢が植えたと伝えられ、今日まで植えつがれてきている。枝や葉が整然としているので、書道でいう楷書の語源ともなったといわれている。
わが国に渡来したのは、大正四年林学博士白澤保美氏が曲阜から種子を持ち帰り、東京目黒の農商務省林業試験場で苗に仕立てたのが最初である。これらの苗に当聖廟をはじめ儒学に関係深い所に頒ち植えられた。その後も数氏が持ち帰って苗を作っが性来雌雄異株であるうえ、花が咲くまでに三十年位もかかるため、わが国で種子を得ることはできながったが、幸いにして数年前から二三個所で結実を見るに至ったので、今後は次第に孫苗がふえてゆくと思われる。
中国では殆んど全土に生育し、黄連木黄連茶その他の別名も多く、秋の黄葉が美しいという台湾ては爛心木と呼ばれている。牧野富太郎博士はこれに孔子木と命名された。
孔子と楷とは離すことができないものとなっているが、特に当廟にあるものは曲阜の樹の正子に当る聖木であることをここに記して世に伝える。
湯島聖堂(旧 昌平黌) 楷樹 湯島聖堂(旧 昌平黌) 楷樹 
湯島聖堂(旧 昌平黌) 南の壁沿いに進む 湯島聖堂(旧 昌平黌) 南の壁沿いに進む 
湯島聖堂(旧 昌平黌) 南の壁沿いに進む 湯島聖堂(旧 昌平黌) 南の壁沿いに進む 

数は少ないが、水仙が満開である。
湯島聖堂(旧 昌平黌) 南の壁沿いに進む 湯島聖堂(旧 昌平黌) 南の壁沿いに進む 

色や雰囲気は桜なのに、見た目は少し花の形が違う。しかし、木に下げられた案内はアンズである。数本ある木は全てアンズとなっていた。
湯島聖堂(旧 昌平黌) 南の壁沿いに進む 湯島聖堂(旧 昌平黌) 南の壁沿いに進む 
湯島聖堂(旧 昌平黌) 入徳門 湯島聖堂(旧 昌平黌) 入徳門 
湯島聖堂(旧 昌平黌) 入徳門から見た杏壇門 湯島聖堂(旧 昌平黌) 入徳門から見た杏壇門 
湯島聖堂(旧 昌平黌) 杏壇門 湯島聖堂(旧 昌平黌) 杏壇門 
湯島聖堂(旧 昌平黌) 大成殿(孔子廟) 湯島聖堂(旧 昌平黌) 大成殿(孔子廟) 

いつもは閉められており、中には孔子の小さな像が祀られている。大成殿の中はガランとしており、中国式の石の床である。
 湯島聖堂(旧 昌平黌) 杏壇門前から見える聖ニコライ堂のドーム 湯島聖堂(旧 昌平黌) 杏壇門前から見える聖ニコライ堂のドーム 

杏壇門前から聖ニコライ堂のドームがきれいに見える。
湯島聖堂(旧 昌平黌) 西門から左折、本郷通りへ 湯島聖堂(旧 昌平黌) 西門から左折、本郷通りへ 

大成殿脇に西門があり、左折すると聖橋が目の前にある。右折すると神田明神に向かう。



 
万歩計 トップ 首都圏の鉄道 目次 中央線快速H2703 目次 東京駅〜四ツ谷駅〜新宿駅 目次  東京駅〜神田駅〜湯島聖堂 目次  神田駅〜マーチエキュート神田万世橋〜湯島聖堂 御茶ノ水駅〜明大通り〜靖国通り  ページ トップ