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西府駅〜谷保天満宮〜谷保駅

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南武線沿いに東進、突き当りの本宿トンネル出口で左折、鎌倉街道(都道18号)へ 南武線沿いに東進、突き当りの本宿トンネル出口で左折、鎌倉街道(都道18号)へ 

本宿トンネルの車道部分は長いが、歩道は南武線をくぐり抜けた所で地上に出る。
鎌倉街道(都道18号) 西府駅入口交差点 鎌倉街道(都道18号) 西府駅入口交差点 
鎌倉街道(都道18号) 本宿交番前交差点で左折、甲州街道(国道20号)へ 鎌倉街道(都道18号) 本宿交番前交差点で左折、甲州街道(国道20号)へ 

右折して次の本宿町交差点で、旧甲州街道が甲州街道(国道20号)に合流する。
5年前に歩いた時は、分倍河原駅のすぐ北が旧甲州街道で、このルートを西進してきた。西府駅に寄るため、南側の旧鎌倉街道を歩いてきたことになる。
甲州街道(国道20号) 本宿交番前交差点 常夜燈 甲州街道(国道20号) 本宿交番前交差点 常夜燈 
甲州街道(国道20号) 本宿交番前交差点 常夜燈 甲州街道(国道20号) 本宿交番前交差点 常夜燈 

由来書

 甲州街道は往古水田地帯を通過していた。
その古街道が廃され現在の街道と家並が出来たのは十七世紀中ば、慶安から寛文の頃であった。しかし台地は水に芝しく人々は度重なる火災に苦しんだと云う。
ついに本宿村では「講」を作り遠江の秋葉神社で「火伏せ」の祈祷をなし、寛政四年、一七九二、この地に常夜燈を設けた。
村内に「番帖」講中の氏名を列記した木板廻わし毎夕刻受領者は必ずこの燈籠に火を点して無事を祈り隣へと引きついだ。
爾来一世紀に亘り村人の祈りは続けられたか大平洋戦争末期、灯火管制が強化されて廃止となった。
このたび都道新設等により旧地隣接の場所に移転したものである。
甲州街道(国道20号) 西府町二丁目交差点 武蔵府中熊野神社 甲州街道(国道20号) 西府町二丁目交差点 武蔵府中熊野神社 

本宿交番前交差点で左折してすぐにある神社である。熊野神社は各地区にあり、この神社は小さく、特に特徴もないが、道路沿いに大きな看板があり、本殿裏に古墳が見えたので立ち寄った。
甲州街道(国道20号) 西府町二丁目交差点 武蔵府中熊野神社 甲州街道(国道20号) 西府町二丁目交差点 武蔵府中熊野神社 
xd1208 甲州街道(国道20号) 西府町二丁目交差点 武蔵府中熊野神社 本殿 
甲州街道(国道20号) 西府町二丁目交差点 武蔵府中熊野神社 由緒 甲州街道(国道20号) 西府町二丁目交差点 武蔵府中熊野神社 由緒 


当神社は往古「熊野大権現」と称され旧本宿村の総鎮守であった。
その創建は江戸初期と伝えられ、当時境内に別当寺である弥勒寺が勧請されており当地にも熊野信仰伝播の様が見られ神仏習合信仰形態が調っていた。
本殿は往時の儘現存し拝殿は天保九年(一八三八)九月改築との棟札があり、拝殿内には江戸時代後期の漢詩人「江山翁大窪行」揮毫の「熊野大権現」と記した額が殿内にある。古墳裏正面には「天明八戊申歳九月吉祥日 当村氏子中願主 松本氏」と刻まれた鳥居があり、正北から境内を守護している。
 甲州街道(国道20号) 西府町二丁目交差点 武蔵府中熊野神社 古墳 甲州街道(国道20号) 西府町二丁目交差点 武蔵府中熊野神社 古墳 
 甲州街道(国道20号) 西府町二丁目交差点 武蔵府中熊野神社 古墳 甲州街道(国道20号) 西府町二丁目交差点 武蔵府中熊野神社 古墳 
 甲州街道(国道20号) 西府町二丁目交差点 武蔵府中熊野神社 古墳 甲州街道(国道20号) 西府町二丁目交差点 武蔵府中熊野神社 古墳 


■飛鳥時代の上円下方墳
  本古墳は、7世紀の中頃の飛鳥時代に築造された、上が丸く、下が四角い上円下方墳です。古代の中国では、天はドームのような半球形で、大地は四角いものと信じられていました。このような考えを「天円地方」といいますが、このような宇宙観や思想を背景として築造されたと考えられています。
■方角
  古墳の中心線は、真北より約7度西へ向いていますが、古墳の築造にあたって方角を意識していたものと考えられます。
■古墳の大きさ
  墳丘の規模は、3段目の上円部の直径約16m、2段目の下方部の一辺約23m、1段目の下方部の一辺約32mを測ります。墳丘の高さは、3段目の墳頂で約6mあります。墳丘全体の中心は、石室の一番奥の部屋(玄室)の中心に合わせるように設計されていました。
■埋葬された人物
  武蔵府中熊野神社古墳が、全国でも類例の少ない上円下方という墳形の古墳であることや、副葬品の質の高さから、その被葬者(埋葬された人物)はおそらく東国の有力者であったと考えられます。残念ながらその人物名は、当時の文献や記録、古墳出土品に名前を記したものがないためわかりません。
 甲州街道(国道20号) 西府町二丁目交差点 武蔵府中熊野神社 古墳 甲州街道(国道20号) 西府町二丁目交差点 武蔵府中熊野神社 古墳 

古墳内に立ち入ることは出来ない。
甲州街道 武蔵府中熊野神社 熱中症計は厳重警戒 甲州街道 武蔵府中熊野神社 熱中症計は厳重警戒 

現在時刻は10:35で、熱中症計は、温度は34.6℃、湿度は37%である。

分倍河原駅では時刻は9:55で、熱中症計は、温度は27.6℃、湿度は58%、注意であった。青空が出てくるに連れ、温度は7℃上がったが湿度は大きく減った。

歩き始めて40分過ぎたが、温度の上がり方が急なせいか、ダメージを感じたので熱中症計を出してみた。
 甲州街道(国道20号) 南武線の跨線橋 西府橋 甲州街道(国道20号) 南武線の跨線橋 西府橋 
甲州街道(国道20号) 国立インター入口交差点 甲州街道(国道20号) 国立インター入口交差点 

甲州街道(国道20号)はこの交差点で左折し、日野バイパスとなる。直進すると都道256号の甲州街道となる。この256号は元々国道20号だったが、日野バイパス開通により都道256号となった。通称は甲州街道である。

元々の甲州街道は直進する道路であるが、東京オリンピックの際、多摩川の砂利輸送のため2車線を4車線化して幅員が狭小になり、左折する日野バイパスが造られた。両方とも甲州街道と称する。

甲州街道の歩道は人一人通るのがやっとのほど狭く、日野バイパス完成後は2車線に戻すとの約束も交通量が多くて実現できていない。
甲州街道(都道256号) 谷保交差点 甲州街道(都道256号) 谷保交差点 

谷保駅にも谷保天満宮にも関係なく、ただ「谷保」と書かれた標識がある。
甲州街道(都道256号) 谷保天満宮前交差点 甲州街道(都道256号) 谷保天満宮前交差点 

交差点の左に谷保天満宮があり、その前に右折すると谷保駅の標識がある。
甲州街道(都道256号) 谷保天満宮 甲州街道(都道256号) 谷保天満宮 
甲州街道(都道256号) 谷保天満宮 甲州街道(都道256号) 谷保天満宮 

谷保天満宮

主祭神名 菅原道真公・菅原道武公

由緒
 昌泰四年菅公大宰府に遷らせ給う所、第三子道武朝臣この地に配流され給う。父君薨去の報に朝臣思慕の情に堪え給はず父君の尊容を刻み、天神島(現府中市本宿)に鎮座す。
 養和元年十一月三日裔孫津戸三郎為守霊夢を蒙り現在の地に遷座す。天暦元年京都北野天満宮造営の折、勅使の下向ありて官社に列せられ、関左第一の天満宮と称せられ、明治十八年府杜に列せられる。

主なる社宝
 後宇多天皇勅額
  「天満宮」 一面(国指定重要文化財) 
 村上天皇寄進
  狛犬 一対(国指定重要美術品)
 源義経・弁慶・亀井六郎・伊勢三郎書写
  「大般若経」 四巻
例大祭日 九月二十三日〜二十五日
甲州街道(都道256号) 谷保天満宮 谷保天満宮社叢 甲州街道(都道256号) 谷保天満宮 谷保天満宮社叢 

 谷保天満宮は、国立市の南、多摩川を臨む立川段丘の縁にあります。その由来について「武蔵国多摩郡谷保村天満宮略縁起(起)」は、菅原道真の第三子三郎がここに流され、三郎殿を建立したこと、また、はじめ本宿村の南天神島というところに創建され、津戸三郎為守が霊夢をみて現在地に遷したことなどが記されています。
 社叢とは、いわゆる鎮守の森のことで、参拝者はその鎮守の森のおごそかな雰囲気の中、参道を進みます。
 甲州街道は一七世紀のある時期まで、谷保のあたりでは立川段丘の下を通っていましたので、天満宮の本殿・拝殿は街道に面し、南向きに建てられています。
 甲州街道が段丘上を通るようになると、人の流れも変わり、参道は駅や甲州街道側からこの鎮守の森を抜け、本殿に向かうようになりました。
 かつては谷保天満宮を取り囲んで、スギを主体とする鬱蒼とした森が広がっていました。現在は、ケヤキ、ムクノキ、エノキなどが優占する林となっています。また河岸段丘の豊富な湧水が流れ、神社に風格を添えています。
甲州街道(都道256号) 谷保天満宮 鳥居の先の階段を下る 甲州街道(都道256号) 谷保天満宮 鳥居の先の階段を下る 
甲州街道(都道256号) 谷保天満宮 鳥居の先の階段を下る 甲州街道(都道256号) 谷保天満宮  鳥居の先の階段を下る 
甲州街道(都道256号) 谷保天満宮 階段脇の滝 甲州街道(都道256号) 谷保天満宮 階段脇の滝 
甲州街道(都道256号) 谷保天満宮 本殿 甲州街道(都道256号) 谷保天満宮 本殿 
甲州街道(都道256号) 谷保天満宮 谷保天満宮(本殿・拝殿) 甲州街道(都道256号) 谷保天満宮 谷保天満宮(本殿・拝殿) 

 谷保天満宮は「醍醐天皇延喜三(九〇三)年二月、官公筑紫に薨去された折、道武朝臣は思慕の情に堪えず、手づから父君の尊容を刻んで廟殿に鎮祀し、旦暮如在の礼を盡された。
 延喜二十一(九二一)年十一月、道武朝臣が此地で逝去されるに及んで、神霊を相殿に配祀して三郎殿と称した」と伝えられている。(天満宮略縁記・谷保天満宮所蔵)
 江戸時代には、朱印領十三石を寄せられ、明治十八(一八八五)年には「府社」となった。
 谷保天満宮の主な社宝には、国指定重要文化財工芸品の木造扁額、建治元(一二七五)年藤原経朝筆の額文「天満宮」があり、同じく国指定重要文化財彫刻、鎌倉時代後期の作と見られる木造狛犬一対がある。社叢は、都指定文化財天然記念物の指定を受けている。
 主な行事としては、一月一日の元旦祭を始めとして、一月の筆供養、九月秋分の日の例大祭、十一月三日の庭燎祭(おかがら火)等がある。例大祭には、市無形(技芸)文恵財指定の獅子舞が奉納される。
 本殿は流造(ながれづくり)、六坪(約二〇平方メートル)で寛永年間(一六二四〜一六四三)の造営と伝えられる。
 この流造とは、今日の日本の神社本殿の大部分を占める形式である。桁行三間(五.四メートル)梁間二間(三.六メートル)の母屋の前に一間(一.八メートル)通りの庇をつけたもので、庇は角柱で、土台上に床板が張られ、そこから階段を上って母屋床に達する。屋根は母屋の切妻造がのびて庇に続き、長くゆるやかに流れるような曲線となる。流造の名は、ここから起ったのである。中世以降の流造は、たいてい三間とも扉口にしている。谷保天満宮の木殿もこの形式をもったものである。
 拝殿は、入母屋造ニニ坪(約七三平方メートル)で、江戸末期の造営とみられる。
 天満宮の境内は、梅林(香雪園)を含めて約六、三〇〇坪(約二〇、七九〇平方メートル)である。
 甲州街道(国道二〇号線)から表参道を降ると本殿、拝殿等がある。普通、神社は高台に鎮座しているものであるが、下へ降る神社は珍しい。拝殿等が街道に背を向けているのは、かつて甲州街道が境内の南側を通っていたためである。
甲州街道(都道256号) 谷保天満宮 あじさい園 甲州街道(都道256号) 谷保天満宮 あじさい園 

本殿の左奥にあり、見物客や、写真を撮る人が多い。
甲州街道 谷保天満宮 熱中症計は厳重警戒 甲州街道 谷保天満宮 熱中症計は厳重警戒 

現在時刻は11:00で、熱中症計は、温度は36.6℃、湿度は33%である。

武蔵府中熊野神社では時刻は10:35で、熱中症計は、温度は34.6℃、湿度は37%、厳重警戒であった。温度はさらに2℃上がったが湿度はわずかに減った。確かに暑くなった、とは思ったが真夏並みとは思わなかった。以後、休める所で水分補給しながら歩いた。
甲州街道(都道256号) 谷保天満宮 神楽殿 甲州街道(都道256号) 谷保天満宮 神楽殿 

階段をおりえ右に本殿、左に神楽殿がある。
 谷保天満宮前交差点で甲州街道(都道256号)を渡り、谷保駅前商店街を北上 谷保天満宮前交差点で甲州街道(都道256号)を渡り、谷保駅前商店街を北上 
谷保駅前商店街 踏切手前で右折 谷保駅前商店街 踏切手前で右折 

車1台がやっとの狭い路地の先に駅舎が見える。
JR 南武線 谷保駅 JR 南武線 谷保駅 



 
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