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十条銀座を北上
十条駅の斜め右手にアーケードの入り口が見える。 |
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十条銀座を北上
夏の商戦用の飾り付けがきれいである。 |
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十条銀座を北上 |
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十条 富士見銀座を北上
十条銀座のアーケード街を抜け、道路を渡るとそこからは富士見銀座となる。短い商店街ですぐ先に環七通りに出る。 |
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富士見銀座 サンクス前交差点で右折、環七通りへ
交差点名はないが、環七通りとすぐ分かる。 |
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環七通り 埼京線に架かる富士見橋 |
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環七通り 馬坂交差点で左折、旧日光御成道(旧岩槻街道)へ |
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旧日光御成道(旧岩槻街道) 清水坂を下る |
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旧日光御成道(旧岩槻街道) 清水坂
日光御成道と将軍
日光御成道は、王子から岩槻を経て幸手で日光街道と合流する奥州(白光)道中の街道として重要な道でした。特にこの道が五街道についで重要視されていたのは、将軍日光社参の時に将軍一行の通る御成街道であったためでした。将軍の日光社参というのは、将軍が4月17日の家康年回忌などに日光東照宮に参詣することですがその行列はとても華やかだったそうです。しかし、その費用は莫大なもので、一度社参すると幕府の財政を圧迫するほどでした。また、将軍日光社参の年にあたると道中筋では代官の陣頭指揮のもと、村民総動員の形で御用を勤めたため、これに対する沿道の名主や村人達の負担も大変なものでした。 |
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旧日光御成道(旧岩槻街道) 清水坂を下る
右手には京浜東北線ろ、その上の東北新幹線の高架が見える。 |
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旧日光御成道(旧岩槻街道) 埼京線のガード下を進む |
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旧日光御成道(旧岩槻街道) 道路拡幅工事が少しずつ進展
「少しずつ」とは言うものの、5年前に埼京線を歩いた頃とそれほどの進展は感じられない。 |
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旧日光御成道(旧岩槻街道) 赤羽 普門院 稲付の餅槝唄
稲付の餅槝唄 道観山稲荷社地内
江戸時代、ここは稲付村と称されていましたが、この先右側の社地でうたわれる餅槝唄は、住民が昔から餅を槝くときにうたった作業唄で、現在は、毎年二月の初午祭のときに道観山稲荷講の人達によってうたい継がれています。
餅は正月を祝って鏡餅として神棚にそなえるとともに、これを雑煮にして食べたり、祝い事や保存食に使うためにも槝かれました。稲付の地域では、餅を槝く際に、臼のまわりに何人もの若者が集まり、唄をうたいながら小さい杵を次々と振りおろして餅を練ったり槝いたりします。餅を練るときにうたったのが稲付千本杵餅練唄、餅を槝くときにうたったのが稲付千本杵餅槝唄です。唄は、大正十二年(一九二三)九月の関東大震災の前後まではズシ(辻子)と呼ばれる小地域共同体の若衆がモヤイ(催合)と呼ばれる相互扶助的な慣行によって家々をまわり、一晩かけて餅槝の手伝いをするときにうたわれました。しかし、米屋が餅の注文を取るようになると餅を槝く機会が次第に失われ、モヤイによる餅槝唄も姿を消していきました。
昭和四十年前後、赤羽西二丁目町会の役員が稲荷講の役員を兼ねていたのが契機となって、静勝寺の参道下から清水小学枝までの街道沿いを氏子地域とする道観山稲荷講の人々が初午祭に際して餅槝唄を伝承するようになり、今日に至っています。 |
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旧日光御成道(旧岩槻街道) 赤羽 普門院 山門
中国風の変わった山門が気になって立ち寄ることにした。普門院の案内などはない。 |
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旧日光御成道(旧岩槻街道) 赤羽 普門院 納骨堂 |
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旧日光御成道(旧岩槻街道) 赤羽 普門院 |
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旧日光御成道(旧岩槻街道) 稲付城跡(静勝寺)前の駐車場
稲付城は太田道灌が築城したと言われ、静勝寺には道灌木像もある。しかし、入口は狭い路地を入っていく感じで、案内板もなく、見落としてしまいがちである。来るたびに雰囲気が大きく変わっており、民家の間の狭い道だったり、工事中だったり、駐車場だったりと変化が激しく、危うく見落とすところだった。 |
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旧日光御成道(旧岩槻街道) 稲付城跡(静勝寺)
稲村城跡は現在の静勝寺境内一帯にあたり、太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。 明暦元年(一六五五)に道灌の子孫太田資宗は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めました。その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌坐像の木像を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。 |
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赤羽駅 西口風景 |
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赤羽駅 西口風景 |
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JR 埼京線 赤羽駅(西口) |