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滝野川桜通りを西進
名前通りに見事な桜並木が続く。 |
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滝野川桜通りを西進
明治通りの千登世橋下交差点で見たあじさいに比べ、色も薄いが、時期(6月10日)的にはこんなものだろう。 |
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滝野川桜通りを西進
板橋駅に近づくと新選組局長近藤勇が描かれた幟が出てくる。 |
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板橋駅 東(滝野川)口 駅前風景
滝野川桜通りを歩いて来ると、駅前に池がある板橋駅東口に出る。 |
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板橋駅 東(滝野川)口 駅前案内図
駅前に淑徳巣鴨高校の案内図があり、その左側の青印が近藤勇の墓と表示されている。 |
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滝野川桜通り 近藤勇墓所 |
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近藤勇墓所 近藤勇と新選組隊士供養塔
慶応四年(一八六八)四月二十五日、新選組局長であった近藤勇は、中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近に設けられた刑場で官軍により斬首処刑されました。その後、首級は京都に送られ胴体は刑場より少し離れたこの場所に埋葬されました。
本供養塔は没後の明治九年(一八七六)五月に隊士の一人であり近藤に私淑していた永倉(本名長倉)新八が発起人となり旧幕府御典医であった松本順の協力を得て造立されました。高さ三.六メートル程ある独特の細長い角柱状で、四面の全てにわたり銘文が見られます。正面には、「近藤勇 ¥ケ 土方歳三義豊 之墓」と刻まれており、副長の土方歳三の名も近藤勇の右に併記されています。なお、近藤勇の諱である昌宜が¥ケとされていることについては明らかになっておりません。右側面と左側面には、それぞれ八段にわたり井上源三郎を筆頭に合計百十名の隊士などの名前が刻まれています。裏面には、当初は「近藤 明治元年辰四月廿五日 土方明治二年巳五月十一日 発起人 旧新選組長倉新八改瘻コ義衛 石工 牛込馬場下横町平田四郎右衛門」と刻まれていましたが、一部は現在判りにくくなっています。
戦術方針の相違から一度は近藤と袂を分かった永倉ですが、晩年は戦友を弔う日々を送ったと伝えられています。本供養塔には、近藤勇のほか数多くの新選組ゆかりの者たちが祀られているので、新選組研究を行う際の基本資料とされ、学術性も高く貴重な文化財です。 |
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近藤勇墓所 新選組永倉新八墓 |
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近藤勇墓所 近藤勇と新選組隊士供養塔 |
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近藤勇墓所 近藤勇と新選組隊士供養塔
供養塔の裏面には近藤勇と土方歳三の名が刻まれているが、側面は摩耗が激しくほとんど読めない。 |
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滝野川桜通り 左折して旧中山道へ
巣鴨の地蔵通りが旧中山道で、庚申塚、明治通りと交差する掘割を経て板橋駅に出る。 |
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JR 埼京線 板橋駅
埼京線の踏切を渡り、西口に出る。 |
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板橋駅前 旧中山道 板橋宿
旧中山道は中山道を横断し、「旧中山道」として色々な遺構が整備されている。 |
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板橋駅前 旧中山道 板橋宿 むすびのけやき
中山道第一番目の宿場町「板橋宿」は、平尾宿・仲宿・上宿に分かれていました。
2002年に開宿400年を記念して、平尾宿にある3本のけやきを、未来に向けて意欲的にまちづくりに取り組む人々の心の象徴として「むすびのけやき」と名付け、記念碑を建てました。
そして、今あらたに「板橋縁起みくじ」を創造し、わが町板橋に集うすべての人々の開運・厄除を祈願してこの祠を設置しました。皆様の願いが成就することをお祈りします。 |
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板橋駅前 旧中山道 板橋宿 むすびのけやき |
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板橋駅前 旧中山道 |
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板橋駅前 旧中山道
板橋宿場散歩案内図で、右手が都電荒川線の庚申塚駅、中央が板橋駅で、右手が三田線の板橋本町駅である。 |
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板橋駅前 旧中山道 |
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新板橋駅前交差点で左折、中山道へ |