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蔵前橋通り 柴又新道口交差点で柴又街道を渡る
柴又街道というと、都営新宿線で瑞江駅から篠崎駅に向かう途中で歩いたことを思い出す。 |
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蔵前橋通り 柴又新道口交差点で柴又街道を渡る |
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蔵前橋通り 中小岩小学校入口交差点で篠崎街道を渡る |
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蔵前橋通り 中小岩小学校入口交差点で篠崎街道を渡る |
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蔵前橋通り 江戸川交差点で千葉街道が合流
蔵前橋通りはここまでで、これより東は千葉街道(国道14号)となる。 |
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千葉街道 江戸川に架かる市川橋 |
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千葉街道 江戸川に架かる市川橋
東側の江戸川の川幅はさして広くなく、西側は広い河川敷で、野球場も4面ある。 |
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千葉街道 市川橋東詰で左折、堤防を北上 |
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江戸川堤防 市川関所跡
江戸時代以前の江戸川は太日川と呼ばれていた。奈良・平安時代の関所跡周辺には井上駅屋がおかれ、都と下総国を往来する公の使いが太日川の渡し船と馬の乗りかえをおこなった。また、室町時代には、市川を旅した連歌篠師の宗長が、その時の紀行文「東路の津登」のなかで、市川に渡があったことを記しており、古くからここに人々が集い、川を渡っていたことがわかる。やがて、江戸に幕府が置かれると、江戸を守るなどのため、関東の主な川に、船の渡場で旅人を調べる「定船場」が設けられた。古くから渡があり市場でにぎわっていた市川が選ばれ、これが後に関所となった。
時を経て、江戸時代の中頃には、川のほか山や海を合わせ、全国各地にたくさんの関所が設けられていた。これらの関所には取り締まりが厳しい関所と比較的ゆるやかな関所があり、市川の関所では江戸へ入る武器と江戸から出てゆく女性が、特に厳しく取り締まられた。
「市川閲所」と呼ばれることもあったが、多くの場合は「小岩・市川関所」と記され、対岸の二村が一対で一つの関所として定められていた。そして、分担して関所にまつ建物は小岩側にあったので、市川村は緊急事態の時に駆けつけて助ける役割を担い、名主の能勢家が取り調べをする役人を補佐した。また、江戸時代を通じて、江戸川には橋が架けられなかったので、閲所を通り、水戸・佐倉道を往来する人々のために、市川村では、二〜三艘の船を用意し、川端に番小屋を建て、二〇人前後の船頭や人夫を雇っていた。そのため「御関所附渡船之村方」とも呼ばれた。
慶応から明治へと時代が変わった時、旧幕府軍と新政府軍の激しい戦いの舞台となり、明治二年(一八六九)に関所廃止令が出されて、その使命を終えてもなお、明治三十八年(一九〇五)に江戸川橋が架けられるまで、渡船の運行は続けられた。しかし、度重なる江戸川の護岸工事で、関所の建物や渡船場の正確な位置は、今日不明となっている。 |
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江戸川堤防 市川関所跡 |
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千葉街道 市川広小路交差点で松戸街道(県道1号)が合流 |
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千葉街道 市川広小路交差点で松戸街道(県道1号)が合流 |
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千葉街道 市川広小路交差点で松戸街道(県道1号)が合流 |
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千葉街道 胡録神社 |
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千葉街道 胡録神社
特に来歴などの案内はないが、小規模な藤棚がある。 |
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千葉街道 千葉銀行前交差点で右折、県道高塚新田市川線(264号)へ |
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千葉街道 千葉銀行前交差点で右折、県道高塚新田市川線(264号)へ
交差点名はない。市川駅前が県道高塚新田市川線(264号)の終点となっている。 |
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JR 総武線 市川駅
5年前は疲労困憊で船橋まで歩いたが、さすがに体力がなくなっている。 |