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本八幡駅 葛飾八幡宮H250503

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千葉街道 葛飾八幡宮 参道 大鳥居 千葉街道 葛飾八幡宮 参道 大鳥居 

JRの本八幡駅から千葉街道に出て東進、約300mで大きな石造の鳥居がある。
千葉街道 葛飾八幡宮 千葉街道 葛飾八幡宮 

下総国 総鎮守 葛飾八幡宮

ご御神
 誉田別命・息長帯比売命(神功皇后)・玉依比売命
御沿革 
 当宮の卿創建は平安の昔(寛平年間)、宇多天皇の勅願により下総国総鎮守八幡宮として御鎮座以来歴朝の御崇敬あつく代々の国司郡司をはじめ国民の信仰ふかく、当国における葛飾文化・八幡信仰の中心となり、中でも平将門の献幤・源頼朝の改築・太田道灌の修覆・徳川家康の神領御朱印地五十二石の寄進等顕著な御社歴がある。
 今の御社殿は大正二年に改築され、大正八年・昭和二十六年・昭和五十九年四月執行の三十三周年式年大祭に修築整備されたものでもある。
御神徳
 文教の祖神・産業振興・殊に農漁業の守護神・厄除開運・安産育児・縁結びの守り神等の御神徳を有せられる。
千葉街道 葛飾八幡宮 参道 京成本線の踏切を渡る 千葉街道 葛飾八幡宮 参道 京成本線の踏切を渡る 

左奥に京成八幡駅が見える。
千葉街道 葛飾八幡宮 参道 第二鳥居 千葉街道 葛飾八幡宮 参道 第二鳥居 
千葉街道 葛飾八幡宮 随神門 千葉街道 葛飾八幡宮 随神門 

 和様、木造単層切妻造で、正面柱三間・奥行柱二間の「八脚門」と呼ばれる構造形式をもち、柱・梁や軒を支える組物に特色があることから、市の有形文化財に指定されています。
 かつて屋根は萱葺でしたが、現在は銅板に葺替えられ、軸部の塗替も幾度か、なされた痕跡があります。
 この門は、明治維新まで当神社の別当寺であった、上野東叡山寛永寺の末寺、天台宗八幡山法漸寺の山門でしたが、明治維新のいわゆる神仏分離によって、随神門と改称し、両袖に安置されていた仁王像も、そのときに行徳の徳願寺に遷され、現在の随神が奉安されました。
千葉街道 葛飾八幡宮 随神門 千葉街道 葛飾八幡宮 随神門 

摩滅がひどく、読みにくい。
千葉街道 葛飾八幡宮 参道 千葉街道 葛飾八幡宮 参道 
千葉街道 葛飾八幡宮 市川市市民会館 千葉街道 葛飾八幡宮 市川市市民会館 

参道の右側にあり、左側には中央公民館がある。
千葉街道 葛飾八幡宮 千葉街道 葛飾八幡宮 

葛飾八幡宮

 寛平年間(八八九〜八九八)宇多天皇の勅願によって勧請された社で、古来、武神として崇敬された。
 治承四年(一一八〇)源頼朝は安房国から下総国府へ入ると、自ら参詣して源氏の武運を祈願し、建久年間(一一九〇〜一一九九)には千葉常胤に命じて社殿を修復させたという。
 また、文明十一年(一四七九)太田道灌は臼井城の千葉孝胤を攻めるため、国府台に築城のさい、関東の安泰を祈って参拝し、社殿の修理を行った。更に天正十九年(一五九一)には、徳川家康が社領として朱印五十二石を供御して崇敬している。
 明治維新の神仏分離のときまでは、当宮境内には上野東叡山寛永寺の末寺が、別当寺として存在した。現存する鐘楼は往時を物語る貴重な建物である。また、山門の二王像は移されて、その後に左右両大臣像が置かれ随神門とよばれるようになった。この随神門は市指定文化財である。
 本殿の東側にそびえる「千本公孫樹」は、天然記念物として国の指定を受け、また、寛政五年(一七九三)に発掘された元亨元年(一三二一)在銘の梵鐘は県指定文化財であり、梵鐘の銘文からも当宮創建の古さがうかがえる。
 当宮の祭礼は九月十五日から六日間にわたって行われ、俗に「八幡のぼろ市」とよばれる近郷に名高い農具市がたち、一時は、関東一とまでいわれた。二月の初卯祭は湯立神事、湯立神楽、宮司舞などをもって祭事が進められる特殊神事の祭りである。
千葉街道 葛飾八幡宮 千葉街道 葛飾八幡宮 
千葉街道 葛飾八幡宮 千葉街道 葛飾八幡宮 

葛飾八幡宮の来歴を詳しく記述しているが、摩耗が激しく、読むのに難渋する。
千葉街道 葛飾八幡宮 社殿 千葉街道 葛飾八幡宮 社殿 



 
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