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 船橋駅前通り 本町1丁目交差点で左折、船橋市道(本町通り)へ 船橋駅前通り 本町1丁目交差点で左折、船橋市道(本町通り)へ 
 船橋駅前通り 本町1丁目交差点で左折、船橋市道(本町通り)へ 船橋駅前通り 本町1丁目交差点で左折、船橋市道(本町通り)へ 

右折すると船橋駅に来た道筋の逆となり、海神交番前を通って西船橋駅に向かう。
船橋市道(本町通り) 船橋市中央図書館 船橋市道(本町通り) 船橋市中央図書館 
船橋市道(本町通り) 海老川に架かる海老川橋(船橋地名発祥の地、長寿の橋) 船橋市道(本町通り) 海老川に架かる海老川橋(船橋地名発祥の地、長寿の橋) 
船橋市道(本町通り) 海老川に架かる海老川橋(船橋地名発祥の地、長寿の橋) 船橋市道(本町通り) 海老川に架かる海老川橋(船橋地名発祥の地、長寿の橋) 

 古い伝説によれば、船橋という地名の起りは、この海老川の渡しに由来する。古代の英雄が東征の途次、此地の海老川を渡ることが出来なかったとき地元民が小舟を並べて橋の代りとし無事向こう岸に送り届けたという。
海老川は長く住民に親しまれてきた。
春堤に風吹けば花蝶遊び、秋淵に水澄めば魚鱗踊るといった時代を経、近年の都市化の中で浸水被害が繰り返され、流域住民にとって“恨みの川”となったが、今、市制五十周年の記念すべき年に当たり、国、県の御協力を得、市の総力を結集し、河川及び橋梁を改修“希望の川”として蘇ることとなった。
船橋市道(本町通り) 海老川に架かる海老川橋(船橋地名発祥の地、長寿の橋) 船橋市道(本町通り) 海老川に架かる海老川橋(船橋地名発祥の地、長寿の橋) 
船橋市道(本町通り) 海老川に架かる海老川橋(船橋地名発祥の地、長寿の橋) 船橋市道(本町通り) 海老川に架かる海老川橋(船橋地名発祥の地、長寿の橋) 
船橋市道(本町通り) 京成本線高架下を進む 船橋市道(本町通り) 京成本線高架下を進む 
船橋市道(本町通り) 大神宮下交差点 船橋市道(本町通り) 大神宮下交差点 

交差点を渡り、船橋大神宮に立ち寄る。
船橋大神宮(意富比(おほひ)神社) 船橋大神宮(意富比(おほひ)神社) 

大神宮下交差点の鳥居の脇には「延喜式内 意富比(おほひ)大神宮」と書かれた大きな石柱が立っている。

延喜式内社とは、延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)に記されている神社である。延喜式神名帳とは、延長5年(927年)にまとめられた「延喜式」の巻九・十のことで、当時「官社」とされていた全国の神社一覧である。
船橋大神宮(意富比(おほひ)神社) 船橋大神宮(意富比(おほひ)神社) 
船橋大神宮(意富比(おほひ)神社) 船橋大神宮(意富比(おほひ)神社) 
船橋大神宮(意富比(おほひ)神社) 社殿 船橋大神宮(意富比(おほひ)神社) 社殿 

あるホームページでは、日本で一番小さい「大神宮」だそうで、なんでこれが「大」なのかと思う。
船橋大神宮(意富比(おほひ)神社) 船橋大神宮の神楽 船橋大神宮(意富比(おほひ)神社) 船橋大神宮の神楽 

 平安時代の史書『三代実録』には「下総国意富比神」の名が見え、『延喜式』には「意富比神社」の名がある。この意富比神は船橋大神宮(意富比神社)の前身である。
 神楽は正月、節分、10月20日の例祭、12月の二の酉に、境内の神楽殿で演じられ、4月3日の水神祭には船橋漁港でも行なわれる。伝えているのは船橋大神宮楽部の人達で、古くからの習わしにより、谷津の人も参加している。
 現在伝えられている演目は次の10座である。
@みこ舞  A猿田舞B翁 舞  C知乃里舞 D天孤舞
E田の神舞F蛭子舞(恵比寿舞)G恵比寿大黒舞
H笹 舞  I山神舞
このうち恵比寿大黒舞は節分祭でのみ演じられる。
 使用する楽器は舞楽に用いる楽太鼓と、大拍子(締太鼓)、笛 各1である。神楽の山来はよくわからないが、曲目の構成からみて、12曲を基準とする「十二座神楽」の系統であると考えられる。
船橋大神宮(意富比(おほひ)神社) 由緒 船橋大神宮(意富比(おほひ)神社) 由緒 

景行天皇の御代四十年に皇子日本武尊が東国御平定の途次此の地に到らせられ、伊勢皇大神宮の御分霊を奉斎なされ、同五十三年に天皇御東行の砌、日本武尊の御事跡を御追憾意富比神社の称号を賜る。
後冷泉天皇御代天喜年間には源義家、頼義両朝臣当宮を修造せられ、亦、仁平元年には船橋六郷の地に御寄附の院宣を賜り、源義朝之を奉じて当宮を再興、其の文書には船橋伊勢皇大神宮とある。
日蓮上人は宗旨の興隆発展成就の為当宮にて断食祈願を行い、徳川家康公は社領を寄せられ奉行をして本殿、諸末社を御造営せしめ 近く明治天皇陛下には習志野、三里塚へ行幸の都度、勅使を以て幣帛料を御奉奠遊ばされる。
現在の御社殿は維新の戦火に罹災後、明治七年に本殿、同二十二年に拝殿が竣工し以後大正十二年、昭和三十八年、同五十年に各々 社殿、末社、鳥居、玉垣等に至る迄の大改修或いは御神泉の奉納、灯明台(県民俗資料指定)の修復等を経ている。
船橋大神宮(意富比(おほひ)神社) 灯明台 船橋大神宮(意富比(おほひ)神社) 灯明台 
船橋大神宮(意富比(おほひ)神社) 灯明台 船橋大神宮(意富比(おほひ)神社) 灯明台 

 かつて、船橋沿岸を航行する船は、意富比(おおひ)神社(船橋大神宮)の境内にあった常夜灯を目印にしていました。
 この常夜灯は慶応4(1868)年の戊辰戦争で社殿とともに焼失しました。
 明治13(1880)年に現在の灯明台が再建され、明治28(1895)年に停止するまでの間、政府公認の私設灯台として利用されました。
 標高27mの丘の上にあり、浅間神社のあった場所に建てられたので、「浅間山灯明台」といいました。
 建築様式は和洋折衷の「擬洋風建築」で、1階2階は和風、3階の灯室が西洋式灯台の意匠を取り入れた六角形のつくりになっています。
 光源は石油ランプ3基に錫製の反射鏡3基を組み合わせ、光の到達距離は約6海里(約11km)あり、その当時の最新式の設備でした。
船橋大神宮(意富比(おほひ)神社) 船橋大神宮(意富比(おほひ)神社) 

常磐神社(船橋の東照宮)造営工事
  本殿・唐門・透塀・玉垣
  木造銅板瓦棒葺漆塗彩色仕上
    設計・監理 株式会社社寺建築研究所
    施工    株式会社大林組
    平成27年10月完成予定
船橋市道 船橋大神宮横の坂を上る 船橋市道 船橋大神宮横の坂を上る 
船橋市道 県立船橋高校 船橋市道 県立船橋高校 

サッカーの強豪校として有名なのは「市立」船橋高校である。
船橋市道 県立船橋高校 船橋市道 県立船橋高校 
船橋市道 東船橋駅入口交差点で左折 船橋市道 東船橋駅入口交差点で左折 
JR 総武線 東船橋駅 JR 総武線 東船橋駅 



 
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