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保土ヶ谷駅〜旧東海道 保土ヶ谷宿(本陣跡〜一里塚跡)

【関連サイト】   JR 横須賀線H15
旧東海道 神奈川(横浜)〜東戸塚散策


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国道1号(東海道) 保土ヶ谷橋交差点で右折 国道1号(東海道) 保土ヶ谷橋交差点で右折 
国道1号(東海道) 今井川に架かる保土ヶ谷橋 国道1号(東海道) 今井川に架かる保土ヶ谷橋 

交差点を曲がるとすぐにある橋で、今井川のほとんどは土砂で埋まっている。
国道1号 旧東海道 保土ヶ谷宿 本陣跡 国道1号 旧東海道 保土ヶ谷宿 本陣跡 

保土ヶ谷1丁目(本陣跡前)交差点にある。交差点で右折すると、JRの線路の北側に旧保土ヶ谷宿の遺構が続く。
国道1号 旧東海道 保土ヶ谷宿 本陣跡 国道1号 旧東海道 保土ヶ谷宿 本陣跡 

 慶長6年(1601年)正月、東海道の伝馬制度を定めた徳川家康より「伝馬朱印状」が「ほとかや」(保土ヶ谷町)あてに出されたことにより、保土ヶ谷宿が成立しました。
 東海道を往来する幕府の役人や参勤交代の大名は、宿場に設置された本陣に宿泊しました。保土ヶ谷宿の本陣は、小田原北条氏の家臣苅部豊前守康則の子孫といわれる苅部家が代々つとめています。同家は、問屋・名主を兼ねるなど、保土ヶ谷宿における最も有力な家で、安政6年(1859年)に横浜が開港する際、当時の当主清兵衛悦甫が総年寄に任ぜられ、初期の横浜町政に尽くしました。明治3年(I870年)に軽部姓に改称し.現在に至っています。
 本陣が混雑した際、幕府の役人や参勤交代の大名は脇本陣に宿泊しました。保土ヶ谷に藤屋・水屋・大金子屋の3軒の脇本陣がありました。
国道1号 旧東海道 保土ヶ谷宿 本陣跡 国道1号 旧東海道 保土ヶ谷宿 本陣跡 

摩耗が激しく読めないが、保土ヶ谷宿の来歴が記されている。
国道1号 旧東海道 保土ヶ谷宿 保土ヶ谷1丁目(本陣跡前)交差点 国道1号 旧東海道 保土ヶ谷宿 保土ヶ谷1丁目(本陣跡前)交差点 

右に本陣跡があり、反対側の道を進むと保土ヶ谷宿の遺構が続く。
国道1号 旧東海道 保土ヶ谷宿 脇本陣(藤屋)跡 国道1号 旧東海道 保土ヶ谷宿 脇本陣(藤屋)跡 

脇本陣(藤屋)跡で、天保年間の建坪や間口などの大きさが書かれている。
国道1号 旧東海道 保土ヶ谷宿 脇本陣(藤屋)跡 国道1号 旧東海道 保土ヶ谷宿 脇本陣(藤屋)跡 
国道1号 旧東海道 保土ヶ谷宿 国道1号 旧東海道 保土ヶ谷宿 

摩耗が激しいが、保土ヶ谷宿の街並みが描かれている。

元治元年(1864年)将軍上洛の際に幕府が調査した往還街並絵図のデータをもとに想像復元したものです。
国道1号 旧東海道 保土ヶ谷宿 脇本陣(水屋)跡 国道1号 旧東海道 保土ヶ谷宿 脇本陣(水屋)跡 
国道1号 旧東海道 保土ヶ谷宿 脇本陣(水屋)跡 国道1号 旧東海道 保土ヶ谷宿 脇本陣(水屋)跡 
国道1号 旧東海道 保土ヶ谷宿 脇本陣(水屋)跡 国道1号 旧東海道 保土ヶ谷宿 脇本陣(水屋)跡 
国道1号 旧東海道 保土ヶ谷宿 国道1号 旧東海道 保土ヶ谷宿 

保土ヶ谷宿の宿泊・休憩施設

本陣・脇本陣
 公用の宿泊・休憩施設として参勤交代の大名などに利用されたのが本陣(1軒)脇本陣(3軒)で、明治3年の宿駅制度廃止まで続いていました。
しかし、その格式と引き換えに制約や出費も多く、経営は必ずしも楽ではなかったようです。
国道1号 旧東海道 保土ヶ谷宿 旅籠屋(本金子屋)跡 国道1号 旧東海道 保土ヶ谷宿 旅籠屋(本金子屋)跡 
国道1号 旧東海道 保土ヶ谷宿 旅籠屋(本金子屋)跡 国道1号 旧東海道 保土ヶ谷宿 旅籠屋(本金子屋)跡 

天保年間の本金子屋(伝左衛門)跡で、建坪や間口などの大きさが書かれている。
国道1号 旧東海道 保土ヶ谷宿 一里塚跡 国道1号 旧東海道 保土ヶ谷宿 一里塚跡 

今井川に架かる茶屋町橋脇にあり、左後方に外川神社がある。
国道1号 旧東海道 保土ヶ谷宿 一里塚跡 国道1号 旧東海道 保土ヶ谷宿 一里塚跡 
国道1号 旧東海道 保土ヶ谷宿 一里塚跡 国道1号 旧東海道 保土ヶ谷宿 一里塚跡 

松並木と一里塚の復元事業について

 平成17年6月、国道1号の拡幅工事で計画されている歩道用地と今井川の改修工事に伴って生じる河川管理用通路を併せて活用し、旧東海道を象徴する松並木や一里塚を復元するために、区民主体の「東海道保土ヶ谷宿松並木プロムナード実行委員会」を結成しました。
同年12月、横浜市の事業である第1 回「ヨコハマ市民まち普請事業」に採択され、平成19年2月、松並木と一里塚の復元が成りました。
今回植えられた木々は若木ばかりです。将来立派な松並木となるよう、多くの皆さまと共に保護育成を図って行く所存です。
国道1号 旧東海道 保土ヶ谷宿 一里塚跡 国道1号 旧東海道 保土ヶ谷宿 一里塚跡 

一里塚跡
 街道の距離の目安として、一里ごとに設置されたのが一里塚です。一里塚は、街道の両側に土盛した小山を作り、その上に遠くからでも目立つよう榎など木々が植えられていました。この付近にあった一里塚は、江戸から八番目のものです。

上方見附跡
 保土ケ谷宿の京都(上方)側の出入口となる上方見附は、保土ヶ谷区郷土史によれば外川神社の前にあったとされています。見附は、土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしており、「土居」とも呼ばれています。この上方見附から江戸方見附までは、家屋敷が街道に沿って建ち並び「宿内」と呼ばれています。
国道1号 旧東海道 保土ヶ谷宿 一里塚跡 国道1号 旧東海道 保土ヶ谷宿 一里塚跡 

保土ヶ谷宿の一里塚
松並木と同時期、街道の距離の目安として、日本橋を起点に一里(約4km)ごとに築かれたのが一里塚です。一里塚は、街道の両側に士を盛って小山をつくり、その上には遠くからでも目立つよう榎や松などの木々が植えられていました。
 保土ヶ谷宿の一里塚は日本橋から八番目に位置し、この附近(現在の車道上)にありましたが、古くから南側の一基の存在しか伝わっていません。その一里塚も明治時代の始め、宿場制度の廃止に伴って姿を失いました。
 この度の一里塚復元事業では、場所の制約から文献にあるような「五間(9m)四方」に相当する大きさの塚を築くことかできませんでしたが、塚の上には昔のように榎を植え、松並木と併せて宿場時代の再現に努めました。



 
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