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県道藤沢鎌倉線 突き当り交差点を右折 |
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星の井通りを西進 |
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星の井通り 右折して御霊神社へ
力餅家という店の横の道を歩く。 |
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星の井通り 御霊神社案内石柱
力餅家の前にある石柱だが、「御」霊ではなく、「五」霊となっている意味はわからない。 |
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御霊神社
江ノ電の踏切を過ぎたところに多くの観光客がおり、警備員がいる理由は分からなかったが、後でよく分かった。 |
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御霊神社
御霊とは、強く尊い祖先の御魂の意で、神社の創建は、平安時代後期と伝えられています。桓武天皇の子孫で「鎌倉武士団」を率ぃた鎌倉権五郎を祀っています。
景政は、「後三年の役(一〇八三年〜)に十六歳で出陣して勇名をはせ、その後現在の鎌倉・湘南地域を開発した領主です。地元では「権五郎さま」と呼ばれ、親しまれています。 |
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御霊神社
当社の創建は平安時代末期と推定され、当初は関東平氏の祖霊を奉祀していたが、後鎌倉権五郎景政公一柱となる。
源頼朝公始め幕府の崇敬篤く「吾妻鑑」に御霊杜鳴動して奉幣するなど所処に記事散見する奇瑞ある神社として有名である。
祭神景政公は桓武天皇の末裔、鎮護府将軍平忠道を祖父とし父鎌倉権守景成の代より鎌倉に住し、鎌倉党武士団を率いる一方現在の湘南一帯(戸塚、鎌倉、鵠沼、藤沢、茅ケ崎)を開拓した開発の鎮守でもある。
景政公十六才にて奥州後三年役永保三年〜応徳四年)初陣す。左眼に矢を射立てられしも屈せずして答えの矢を射て相手を斃し陣中に帰り、その矢を抜かんと面部に足を掛けし三浦平太の無礼を刀を構えて叱咤した公の剛毅と高い志は歌舞伎にもなり武士の鑑と永く仰がれている。 |
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御霊神社
御霊神社は報われぬ死に方をした人の霊を祀ることが多い。鎌倉権五郎関連のホームページを探してもそのような記述はない。
射られたのが神社の説明では左目だが、右目とするものもある。 |
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御霊神社
写真の右手奥にトンネルがあり、トンネルから出てくる江ノ電を撮るのが観光客の目的だった。 |
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星の井通り 星の井
星の井通りで極楽寺坂手前、虚空蔵堂の階段下にある。
鎌倉十井の一つで、昔井戸の中に昼間でも星の影が見えたと言うことからこの名がついた。奈良時代の行基は、井戸から出てきた光り輝く石を虚空蔵菩薩の化身と思い、お堂を建てたという伝説がある。 |
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星の井通り 星の井 |
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星の井通り 虚空蔵堂 |
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極楽寺坂 成就院
星の井通りの虚空蔵堂の先にあり、極楽寺坂(極楽寺切通し)と山門をつなぐ参道に咲く紫陽花で有名である。
極楽寺開山忍性が一条の路を開き、極楽寺切通と言われた。元弘三年(1333年)の鎌倉討入りに際し、大館次郎宗氏 江田三郎行義は新田軍の大将として、大仏陸奥守貞直は鎌倉軍の大将としてここで戦った。 |
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極楽寺坂 成就院 参道の紫陽花 |
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極楽寺坂 成就院 参道の紫陽花 |
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極楽寺坂 成就院 参道の紫陽花 |
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極楽寺坂 成就院 参道の紫陽花
山門前から見た由比ヶ浜と、参道の紫陽花は多くの写真が撮られて有名である。 |
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極楽寺坂 成就院
弘法大師さまが全国を巡り修業された折り、この地にて護摩行・虚空蔵求聞持法等を修められたと伝えられる。その後、承久元年(一二一九)に北条泰時が深願を込め高僧を招き本尊に不動明王をまつリ普明山法立寺成就院と名付け建立した。元弘三年(一三三三)新田義貞鎌倉攻めの時に堂宇は焼失し、近くのの西ガ谷に移っていたが元禄年中、祐尊僧正が旧地に復興し現在に至っている。
本尊は縁結び不動明王さまとして信仰されている。 |
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極楽寺坂 成就院 |
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極楽寺坂 成就院
成就院は紫陽花もなく、普通の寺である。 |
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極楽寺坂 成就院
西側の参道には紫陽花もなく、普通の石段である。降りると極楽寺である。 |
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江ノ電極楽寺駅と極楽寺
跨線橋の桜橋を渡り、右手の極楽寺に向かう。 |
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極楽寺
霊鷲山極楽寺と号し、開山は忍性菩薩です。忍性は広く慈善救済事業を行い、人々から尊崇されました。本尊の釈迦如来立像は秘仏で重要文化財に指定されています。 |
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極楽寺 |
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極楽寺
特にこれと言った特徴もない寺である。 |
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江ノ島電鉄(江ノ電) 極楽寺駅 |
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江ノ電線路の東側の道を下る |
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江ノ島電鉄(江ノ電) 極楽寺駅 |