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万歩計



(From H14-10-28)

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掲示板(一言どうぞ)


三ノ輪 投げ込み寺(浄閑寺)〜小塚原回向院・処刑場跡〜南千住駅

【関連サイト】   つくばエクスプレス(平成17年9月撮影)
東京メトロ(旧営団) 日比谷線(北千住〜上野〜秋葉原)
歴史点描)三ノ輪 投げ込み寺(浄閑寺)
    歴史点描)回向院(両国、小塚原) 小塚原・鈴ヶ森刑場遺跡


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日光街道 大関横丁交差点から最初の横道を右折 日光街道 大関横丁交差点から最初の横道を右折 

昭和通りは交差点を渡った所で日光街道と名称が変わる。信号も標識も無いが、交差点から最初の角を曲がると二股道で、左側に浄閑寺がある。
投げ込み寺(浄閑寺) 投げ込み寺(浄閑寺) 

音無川と日本堤

 音無川は王子で石神井川からわかれている。その清流は田端・日暮里・金杉を流れ、三ノ輸橋をくぐり、浄閑寺の西側にそって、ここから山谷堀をへて隅田川にそそいでいる。今は暗渠になっているが、明治のおわりまで濯漑用水として使われていた。
 音無川にそって、三ノ輪から聖天町(現浅草七丁目)まで続く土手を日本堤(吉原土手)といった。安藤広重の『名所江戸百景』に描かれ、新吉原への遊客でにぎわった堤も今はない。浄閑寺前の三叉路の最も南寄りの道路がその名残である。
投げ込み寺(浄閑寺) 投げ込み寺(浄閑寺) 
投げ込み寺(浄閑寺) 投げ込み寺(浄閑寺) 

浄閑寺は浄土宗の寺院で、栄法山清光院と号する。安政二年(一八五五)の大地震の際、たくさんの新吉原の遊女が、投げ込み同然に葬られたことから、「投込寺」と呼ばれるようになった。花又花酔の川柳に、「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と詠まれ、新吉原総霊塔が建立された。
 檀徒の他に、遊女やその子供の名前を記した、寛保三年(一七四三)から大正十五年(一九二六)にいたる、十冊の過去帳が現存する。
 遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて、作家永井荷風はしばしば当寺を訪れている。「今の世のわかき人々」にはじまる荷風の詩碑は、このような縁でここに建てられたものである。
投げ込み寺(浄閑寺) 投げ込み寺(浄閑寺) 
投げ込み寺(浄閑寺) 投げ込み寺(浄閑寺) 
投げ込み寺(浄閑寺) 新吉原総霊塔 投げ込み寺(浄閑寺) 新吉原総霊塔 

新吉原総霊塔一帯はこんもりとした木立に囲まれ、晴天でも薄暗く、後方を常磐線の電車がひっきりなしに走る。
投げ込み寺(浄閑寺) 新吉原総霊塔 投げ込み寺(浄閑寺) 新吉原総霊塔 

花又花酔の有名な川柳

「生まれては苦界、死しては浄閑寺」
投げ込み寺(浄閑寺) 永井荷風の詩碑 投げ込み寺(浄閑寺) 永井荷風の詩碑 

新吉原総霊塔の前にあり、詩碑の後ろに諸和38年に永井荷風所縁の品を納めた荷風碑建立の由来が書かれている。
投げ込み寺(浄閑寺)沿いの道を東進 投げ込み寺(浄閑寺)沿いの道を東進 
南千住二丁目交差点で左折、吉野通りへ 南千住二丁目交差点で左折、吉野通りへ 
吉野通り 南千住駅前歩道橋 吉野通り 南千住駅前歩道橋 

吉野通りは手前から地下道で常磐線の下を潜り抜ける。
吉野通り 南千住駅前歩道橋 吉野通り 南千住駅前歩道橋 

右後方に東京メトロ日比谷線の南千住駅のホームが見え、小塚原処刑場跡(延命寺)は左手前の階段を下りる。
南千住 小塚原処刑場跡(延命寺) 南千住 小塚原処刑場跡(延命寺) 

江戸のお仕置場(刑場)は、品川の鈴ヶ森と千住の小塚原の二つである。
小塚原の刑場は、間口六十間余(約百八メートル)、奥行三十間余(約五十四メートル)で、明治のはじめに刑場が廃止されるまでに、磔・斬罪・獄門などの刑が執行された。
 首切地蔵は、この刑死者の菩提をとむらうため寛保元年(一七四一)に造立されたものである。
南千住 小塚原処刑場跡(延命寺) 南千住 小塚原処刑場跡(延命寺) 首切地蔵 

小塚原での刑死者の菩提を弔うため寛保元年(一七四一)に建立されたこの地蔵は、二十七個の花崗岩を組み合わせた全体の高さが四メートルに近い坐像で、台座には発願者・石工が刻まれている。奥州街道沿いにあったので、江戸に出入りする多くの人が目にしたという。明治二十八年(一八九五)に土浦線(現常磐貨物線)敷設工事のため線路の南側から現在地に移されたが、人々に安らぎを与えてきた慈悲の姿は変わるところがない。
吉野通り 東京メトロ(旧営団) 日比谷線 南千住駅 吉野通り 東京メトロ(旧営団) 日比谷線 南千住駅 

延命寺の向かい側に見える。
小塚原 回向院 小塚原 回向院 
小塚原 回向院 小塚原 回向院 

回向院は、寛文七年(一六六七)、本所回向院の住職弟誉義観が、行路病死者や刑死者の供養のために開いた寺で、当時は常行堂と称していた。
 安政の大獄により刑死した橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎ら多くの志士たちが葬られている。
 明和八年(一七七一)蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが、小塚原で刑死者の解剖に立ち合った。後に『解体新書』を翻訳し、日本医学史上に大きな功績を残したことを記念して、大正十一年に観臓記念碑が建立された
小塚原 回向院 観臓記念碑 小塚原 回向院 観臓記念碑 

回向院に入ってすぐ右の壁に貼られている。
小塚原 回向院 観臓記念碑 小塚原 回向院 観臓記念碑 

「蘭学を生んだ解体の記念に」
一七七一年・明和八年三月四日に杉田玄白・前野良沢・中川淳庵等がここへ腑分を見に来た。
それまでにも解体を見た人はあったが、玄白等はオランダ語の解剖書ターヘル・アナトミアを持って来て、その図を実物とひきくらべ、その正確なのにおどろいた。
その帰りみち三人は発奮してこの本を日本の医者のために訳そうと決心し、さっそくあくる日からとりかかった。そして苦心のすえ、ついに一七七四年・安永三年八月に、「解体新書」五巻をつくりあげた。
これが西洋の学術書の本格的な翻訳のはじめでこれから蘭学がさかんになり、日本の近代文化がめばえるきつかけとなった。
さきに一九二二年奨進医会が観臓記念碑を本堂裏に建てたが、一九四五年二月二十五日戦災をうけたので、解体新書の絵とびらをかたどった浮彫青銅板だけをここへ移して、あらたに濾建てなおした。
小塚原 回向院 観臓記念碑 小塚原 回向院 観臓記念碑 
小塚原 回向院 小塚原の刑場跡 小塚原 回向院 小塚原の刑場跡 

 小塚原の刑場は、寛文7年(1667)以前に浅草聖天町(現台東区)辺りから移転してきたといわれています。間口60間(約108m)、奥行き30間余り(約54m)、約1,800坪の敷地でした。日光道中に面していましたが周囲は草むらだったといわれ、浅草山谷町と千住宿の間の町並みが途切れている場所に位置していました。
小塚原の刑場では、火罪・磔・獄門などの刑罰が執り行われるだけではなく、刑死者や行倒れ人などの無縁の死者の埋葬も行われました。時に刑死者の遺体を用いて行われた刀の試し切りや腑分け(解剖)も実施されました。また、徳川家の馬が死んだ後の埋葬地として利用されることもありました。そして回向院下屋敷(現回向院)はこれらの供養を担っていました。
明治前期には、江戸時代以来の刑場としての機能は漸次廃止、停止され、回向院は顕彰、記念の地となっていきました。橋本佐内や吉田松陰といった幕末の志士の墓は顕彰の対象となりました。また「観臓記念碑」は、杉田玄白や前野良沢らが、ここで腑分けを見学したことをきっかけとして「ターヘルアナトミア」の翻訳に着手し「解体新書」を出版したことを顕彰するため建てられたものです。回向院境内にはこうした数多くの文化財が残っており、刑場の歴史を今に伝えています。
小塚原 回向院 史跡参拝所 小塚原 回向院 史跡参拝所 
小塚原 回向院 史跡参拝所 小塚原 回向院 史跡参拝所 

右から腕の喜三郎、最後の処刑者の高橋お伝、片岡直三郎(直侍)、鼠小僧次郎吉である。
腕の喜三郎は、罪人ではなく、怪我した腕を鋸で切り落とした任侠だそうである。
小塚原 回向院 史跡参拝所 小塚原 回向院 史跡参拝所 

鼠小僧次郎吉などの墓の向かい側にさりげなく設けられている墓で、名前を見たら2.26事件で処刑された磯部浅一元大尉夫妻の墓だった。
2.26事件も約70年前の事件であり、「史跡参拝所」に移されたのか、との感慨もある。
吉野通り JR 南千住駅 吉野通り JR 南千住駅 

小塚原回向院の向かい側にホームが見える。
つくばエクスプレス線 南千住駅 つくばエクスプレス線 南千住駅 

JR南千住駅と道路を隔てて向かい合っている。



 
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