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京王 京王線 調布駅
【撮影記録】
平成21年 5月 26日 晴れ
09:55〜12:50 17,300歩(概算 13.8km)
京王線 調布〜東府中〜府中競馬正門前駅〜府中〜分倍河原
営業距離 9.4km 駅数 9
爽やかな初夏の天気で、ひたすら旧甲州街道を歩き、東府中から京王競馬場線に寄り道して東京競馬場を巡り、府中駅に出て、分倍河原に至る。 |
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調布駅 北口風景 |
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調布駅北口交差点で左折、旧甲州街道へ |
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旧甲州街道 下石原一丁目交差点で鶴川街道を渡る |
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旧甲州街道 下石原一丁目交差点で鶴川街道を渡る
京王相模原線を歩く時は、この交差点で左折、鶴川街道を進む。 |
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旧甲州街道 下石原一丁目交差点で鶴川街道を渡る |
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旧甲州街道 西調布駅入口交差点で左折 |
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京王 京王線 西調布駅 |
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旧甲州街道 西光寺
数年前に大河ドラマで近藤勇が取り上げられた時は、調布、府中、日野など幟を立てるなど、大々的にPRをしていたのを思い出す。 |
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旧甲州街道 西光寺 |
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旧甲州街道 西光寺 |
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旧甲州街道 西光寺 近藤勇座像
近藤勇は天保五年(一八三四年)武蔵国多摩郡上石原村(現調布市野水一−六)宮川久次郎の三男として生まれ、幼名勝五郎、幼い頃より武芸に親しみ、嘉永元年天然理心流近藤周助に入門、翌二年近藤家の養子となり、文久元年天然理心流宗家四代目を襲名、府中六所宮で襲名披露の野試合を行った。
文久三年、幕府が組織した浪士隊に応募、将軍上洛の警護のため京都に行き会津藩お預かり新選組を結成、局長として洛中の治安の維持にあたる。中でも元治元年六月浪士達が画策した京都の大惨事を未然に防いだ功績で、幕府と朝廷から恩賞を受けた池田屋事件での活躍はあまりにも有名である。
然しながら世情の移り変わり激しく、慶応三年将軍徳川慶喜は大政を奉還し、翌四年の鳥羽伏見の戦いに破れたので、傷心のうちに幕艦富士山丸で江戸に帰った。
その年三月、近藤勇は将軍慶喜から許された大名格(若年寄格)として大久保剛と改名、甲陽鎮撫隊を編成し、甲州街道を甲府に向けて出陣した。途中思い出多い故郷上石原では、長棒引戸の駕籠を降り小姓を従えて、遙か氏神様の上石原若宮八幡宮に向かって戦勝を祈願して西光寺境内で休息、門前の名主中村勘六家で歓待をうけた後、多くの村人に見送られながら出立し村境まで歩いた。天下に知られた英雄がふるさとへ錦を飾ることはできたが、戦況利あらず勝沼の柏尾山の戦ぃに敗れ慶応四年四月下総流山(千葉県流山市)で大久保大和として西軍に出頭、同月十五日江戸板橋で刑死、時に僅か三十五歳波瀾万丈の生涯をとじた。 |
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旧甲州街道 西光寺 近藤勇座像 |
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旧甲州街道 西光寺 仁王門
この門は、市内に残る唯一の仁王門で、年代も十八世紀初頭と特定できる貴重な建物である。正面両脇間に仁王像を安置し、また楼上に銅鐘を釣るので、仁王門でもあり鐘楼門ともいう。
寺の記録によると、西光寺中興の大僧都弁雄が宝永年間(一七〇四〜一〇)に建てたと記されており、釣鐘にも弁雄の名前が銘記されているので、この時の再建であることが明らかである。 |
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旧甲州街道 西光寺 仁王門 |
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旧甲州街道 西光寺 |
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旧甲州街道を西進
飛田給には味の素スタジアムをホームとするFC東京があり、至る所に幟が飾られている。 |
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旧甲州街道 飛田給駅入口交差点で左折 |
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京王 京王線 飛田給駅
如何にもスタジアム風の駅舎である。旧甲州街道の飛田給駅入口交差点の先に味の素スタジアムが見えるので寄ることとした。 |
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味の素スタジアム
甲州街道沿いにある。 |
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味の素スタジアム
スタジアム通りの先に飛田給駅入口交差点が見え、その先にスタジアム風の飛田給駅が見える。 |
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スタジアム通り 飛田給駅入口交差点で右折、旧甲州街道へ |
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旧甲州街道を西進 |
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旧甲州街道 車返団地入口交差点で白糸台通りを渡る |
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旧甲州街道 車返団地入口交差点で白糸台通りを渡る |
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旧甲州街道 車返団地入口交差点の次の交差点で左折
名前のない交差点で、歩いていてもこれで良いのだろうか、と思うような住宅街を南下する。 |
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京王 京王線 武蔵野台駅 |
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旧甲州街道 白糸台一丁目交差点で左折 |
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京王 京王線 多摩霊園駅 |
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旧甲州街道 府中市コミュニティバス ちゅうバス バス停 多摩霊園駅入口
確かにコミュニティバスがないと不番な所ではある。 |
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旧甲州街道 東府中駅前
写真の左角に東府中駅があり、旧甲州街道は直進し、右手に少し進むと甲州街道と合流する。 |
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京王 京王線 東府中駅 |