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鶴瀬駅 ロータリーの西側に向かう
地図を見ていたら同じ道を戻って川越街道に出るよりも、西側の道を歩いたほうが分かりやすく、早いと判断した。しかし、これは非常に問題のある判断だった。 |
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ふじみサンロード 突き当たりで左折 |
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すぐのセブン・イレブンで右折、道なりに歩く |
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突き当りを右折
同じような道が色々あり、多分こちらだろう、ということで進む。結果として正解だったが、道に迷う所だった。 |
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仲通り商店街を歩く
仲通り商店街、とはなっているが、普通の住宅街である。 |
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富士見鶴瀬西郵便局前を歩く
地図では道なりに歩けばこの郵便局にすぐ出ることになっていた。目標を見つけた時はほっとした。 |
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マミーマート前交差点を進む |
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ウニクス前交差点で右折、川越街道へ
左角に複合商業施設のウニクスがある交差点で右折する。 |
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川越街道 北西に歩く |
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川越街道 徳性寺 |
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川越街道 徳性寺
天台宗天龍山本乗院徳性寺は、川越市古谷の灌頂院の末寺で伝承によれば、今から四五○年程前の室町時代、秀山律師により開かれたという。一時、寺勢が衰えたものの、江戸時代前期、第一四世祐円和尚(万治三年・一六六〇年没)により中興された。明治一四年(一八八一年)一月一六日の大井町の大火により本堂・庫裏などの建造物と共に当時の歴史を記した記録も失われてしまった。
現在の本堂は昭和四八年(一九七三)に、庫裏は昭和五五年に(一九八〇)に再建されたものである。
本尊は、室町時代のものと考えられる阿弥陀三尊像である。本堂裏手には江戸時代初期に大井を領地とした旗本の米津彦七郎の位牌(天和二年・一六八二没)が祀られている.また本堂裏手の墓地には歴代住職の墓塔のほか、元和九年(一六二三)銘の五輪塔(新井家墓地)があり、寺の歴史の古さを今に伝えている。
山門は、大火の後のの明治二五年(一八九二)に移築されたもので、川越の南院(廃寺)のものとも川越城の遺構であるとも言われている。この山門の脇には、坂上(小字東台)近くの石塔畑と呼ばれる場所から出土した弘安四年(一二八一)の銘記を持つ板石塔婆をはじめとする二十数基の板石塔婆や大井宿の南の木戸(江戸側)に立っていたとされる石の地蔵など大井の歴史を物語る多くの石像物をみることができる。
また、当寺では、近年まで、遺骸を埋葬する場所(埋め墓)と墓塔を建てる場所(詣り墓)とが異なる両墓制を見ることができた。 |
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川越街道 徳性寺
天龍山本乗院徳性寺と称し、天台宗比叡山延暦寺が本山である。本尊は阿弥陀三尊。開山である秀山律師は、貞治五年(一三六六)六月に、大福寺(現坂戸市)にて遷化している。
この寺は、大井宿の中心的な存在であったが、明治十四年一月の大火により本堂をはじめ寺のすべてを焼失した。現在の山門は、川越市の南院(現在は廃寺)から移築したものである。また、仮本堂として灌頂院から庫裡が移築されていたが、老朽化により解体され、昭和四十八年に本堂が、昭和五十三年に庫裡が新築された。
山門をくぐると左手に板碑と地蔵尊が安置されている。板碑は古坂と呼ばれる切通しから出土したもので南北朝期のものが多い市内最大最古の板碑は弘安四年(一二八一)のもので、古坂を上ったところの石塔畑より出土。地蔵尊は大井宿南木戸からの移設で、柔和なお姿で市の変遷をながめている。 |
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川越街道 徳性寺 板碑、地蔵尊
山門をくぐり、左手裏にある。 |
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川越街道 徳性寺 弘安の板碑(板石塔婆)
この板碑は、高さ一一七cm、幅三一cm,厚さ三cmの大きさで、元(現在の中国)が北九州博多に侵攻した弘安の役(元寇)が起きた弘安明年(一二八一年)の銘が記されている完形品である。鎌倉街道と伝えられる古道に面した「坂上の石塔畑」と呼ばれる場所(東台)から出土し、徳性寺境内に移されたという。「大井町念仏講中」と刻まれた台座は後世のものである。
板碑とは、鎌倉時代から室町時代を通して板状の石で造られた供養塔で、「板石塔婆」、「青石塔婆」、「ばんぴ」、「いたぼとけ」とも呼ばれ、日本全域に分布している。埼玉県内の板碑の多くは青緑色の緑泥片岩(結晶片岩)で造られており、この板碑も同じ材質である。
板碑の歴史的な価値は碑面に刻まれた記録にあり、その中でも種子(梵字)を見れば仏の種類がわかり、造立者の信仰が知られる。この碑面の種子には「?」が刻まれて阿弥陀仏を表現し種子の下には蓮座を刻んで礼拝の対象としていたことがわかる。この板碑造立の頃には、最も大型で厚いものが多く、形式が整い、意匠が秀抜で、梵字の書体も企画的、かつ彫法に鋭利な力強さが認められ、中には在地領主層の造立と考えられるものがある。この板碑もその一つである。
中世の史料が少ないふじみ野市にとって、板碑の分布から集落の状態、梵字による宗教の種別と信仰状態、石材を入手するための交易の範囲などをうかがえる貴重な資料として、この板碑のもつ意義は大きい。 |
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川越街道 徳性寺 弘安の板碑(板石塔婆)
字がかすれてはいるものの、「弘安四年」と彫られている。 |
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川越街道 大井宿と本陣
大井宿は、川越街道の六宿場(大井・大和田・膝折・白子・下練馬・上板橋)のうちのひとつとして、江戸から約八里、川越城大手門(現川越市役所)からニ里半の道程にありました。江戸時代以前の大井宿は大井郷と呼ばれ、川越街道より東方の現在の東原小学校を中心とした「本村」などの地名のところに集落があったことが発掘調査により確認されています。
江戸時代にはいり、川越街道の各宿場が整備されるに従い、この集落が街道沿いに移転させられ、寛永期ごろにはほぼ宿場の町並みができあがったものと思われます。その後、元禄一一年(一六九七)にはそれまでの旗本米津氏の知行地から川越藩領となり、大井村から大井町(宿)の呼称へと変わっていきました。
江戸時代中期の宝永二年(一七〇五)の「大井町明細帳」には、家数九四軒、人口四七九人(男二五七人・女二一七人・僧三人・道心二人)、このうちに米・洒・塩・小間物などを扱う商人が五人と桶屋一人がおり、また馬が六〇疋いると記され、宿場としての賑わいが感じられます。(以下略) |
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川越街道 大井宿と本陣 |
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川越街道 東入間警察署入口交差点 |
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川越街道 東入間警察署入口交差点 |
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川越街道 旧大井村役場庁舎
大井小学校の敷地の中にあり、立ち入ることは出来ない。 |
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川越街道 旧大井村役場庁舎
一八八九(明治二二)年四月に施行された「市町村制」によって、それまで全国約七万に及んでいた市町村が、その五分の一の三九市一万五八二〇町村に統廃合されました。この統合の標準は、数か町村、戸数にして五〇〇戸を目標にしで行なわれました。現在の大井村(大井町)の誕生もこの時で、連合戸長役場所轄のうち藤間村(現川越市)を除いた亀久保村・鶴ヶ岡村・大井町・苗間村を合併して一村とし、村名を大井村と称し、初めて現在の大井村(大井町)が、地理的にまた行政的に誕生することになりました。当時の大井村は三九九世帯、人口二四〇七人でした。
町村合併当時の役場の設置については、村内に適当なところがなく、苗間村の空家を仮役場とすることに村議会で決定し、県に具申しています。
その後、一九〇九(明治四二)年六月一七日に、村のほぼ中央に位置し、川越街道に沿ったこの地に役場を新築し移転しました この庁舎は、大井小学校の改築にあたって不用になった廃材を利用して建築されたもので、構造は亜鉛鉄板葺きの平屋でした 老朽化・腐食・雨漏りが昭和一〇年頃より目立ち、また手狭にもなったため、ついに庁舎を改築することとなりました。
一九三六(昭和一一)年一二月の議会で、役場改築に関する決畿がなされ、さらに翌年一月には、大井村役場庁舎建築委員を設けることが決められ、同年五月に竣工しました。
建設には地元の大工・鳶・左官たちが総動員され、敷地の近くにテントを張って五人の大工が材木の加工を行なっていたものです。
昭和初期になると、公共建物を中心に鉄骨やコンクリートなどの近代建築が各地に姿をあらわし、洋風木造建築が一般庶民の間で新しい時代の象徴としてあこがれをもって見られていたようです。
玄関ポーチの上部にはベランダが廻され、現在はトタンスレート葺の屋根も建設当初はスパニッシュ瓦が葺かれでおり、一階は事務室、二階は村議会議場となっていました。
役場が落成した時には、大井村と東京との間て、一番ハイカラな建物ができたと村民の手紙に書き添えられたといわれています。
一九四〇(昭和一五)年頃に、農作業に従事していた村人に時刻を知らせるためにサイレン塔が取り付けられ、その後役場内は上履き使用から土足使用に変わり、
一九七二(昭和四七)年一月に現在の庁舎が建設されるまでの三五年間、役場庁舎として使用されました。
その後東入間警察署として利用され、この際改装上事が行なわれ、間取りに原形が留められるものの、内装には大きく手が加えられました。翌年大井小学校の特別教室として使用し、一九七七(昭和五二)年から埋蔵文化財整理室として利用され、現在に至っています。 |
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川越街道 ふじみ野駅入口交差点で右折 |
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裸木のけやき並木を北上 |
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東武 東上線 ふじみ野駅 |