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田園都市線 溝の口駅(南口)
【撮影記録】
平成26年 2月 25日 晴れ
9:50〜14:30(昼食15分) 19,6000歩(歩行距離 概算 13.9km 地図上 11.6km)
田園都市線 溝の口駅〜大山街道〜二子玉川駅〜駒沢公園〜三軒茶屋駅〜渋谷駅
駅数 10、営業距離 11.4km
2月下旬なのに最高気温は14℃を越し、歩いている時は熱中症計で19.5℃ととんでもない暑さで、距離もあったせいか途中でバテ気味だった。瀬田と大坂の長い上り坂はあったが、あざみ野から梶ケ谷までの上り坂の連続に比べたら楽だった。 |
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溝の口駅(南口) 風景
奥にJR南武線の武蔵溝ノ口駅の駅舎があり、南口がある。手前が田園都市線の溝の口駅で、連絡コンコースが見える。 |
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大山街道(県道14号鶴見溝ノ口線) 高津区役所前交差点で右折
交差点名はないが左の茶色の建物は川崎市の高津区役所で、県道14号鶴見溝ノ口線は右折し、大山街道として高津交差点を終点とする。
梶が谷駅から坂を下り、この交差点に左から出てくる。 |
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大山街道(県道14号鶴見溝ノ口線) 川崎第一ホテル溝ノ口前 庚申塔と大山道標 |
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大山街道(県道14号鶴見溝ノ口線) 川崎第一ホテル溝ノ口前 庚申塔と大山道標
「見ざる・聞かざる・言わざる」で知られた庚申信仰は、平安時代に始まる。特に盛んになった江戸期、この地に作られた庚申塔は、大山街道をゆく旅人の道標をかねていた。 |
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大山街道(県道14号鶴見溝ノ口線) 川崎第一ホテル溝ノ口前 「陶芸家濱田庄司」生誕の地
第一回人間国宝・文化勲章受賞者濱田庄司は、ここで生れました。
父の家は溝口の和菓子「大和屋」です。 「陶芸こそ人の役に立つ」とのルノワールの言葉で陶芸作家板谷波山が教える東京高等工業学校(現在の東京工業大学)窯業科に進み、卒後は京都市窯業試験場で釉薬調合の実験に従事しました。
河井寛次郎や柳宗悦、志賀直哉、バーナード・リーチと意気投合し帰国するリーチと共に英国セントアイブズに窯を構え、最先端の芸術運動に触れました。帰国後、栃木県益子で陶作に励み、世界各地の民芸品を収集し「益子参考館」に展示しました。
夏は益子、冬は沖縄で作陶し、昭和53年1月5日益子にて84年の生涯を終えました。菩提寺の溝口宗隆寺で本葬され眠っています。
碑意は「陶匠は跡を留めず」 |
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大山街道(県道14号鶴見溝ノ口線) 川崎第一ホテル溝ノ口前 「陶芸家濱田庄司」生誕の地 |
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大山街道(県道14号鶴見溝ノ口線) 南武線踏切を渡り北上 |
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大山街道(県道14号鶴見溝ノ口線) 栄橋交差点で南部沿線道路を渡る |
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大山街道(県道14号鶴見溝ノ口線) 栄橋交差点 さかえ橋の親柱石
この角型で細長い石造物は欄干の親柱で、橋の名は字のとおり「さかえばし」。
その橋は平瀬川と根方堀(二ヶ領用水)か交差したこの場所にあった。ここが溝口村上宿と作延村片町の境にあったことから「境橋」、あるいは古代から中世にかけ、このあたりに馬上からの検見(見積り)で税などが免除された田畑があったと伝えられていることから「馬上免橋」とを呼ばれてきた。
また、明治ニ十一年の溝口村の『地誌』には「栄橋」とある。これは溝口村と周辺の村々の繁栄を祈願して命名されたものであろう。その地誌には
栄橋
所在 字南耕地 幅 巾弐間
長 長四間 構造 木造
雑項 本橋ハ矢倉沢往還二属シ橘樹郡菅生村字長沢ヨリ発源ノ谷川二架設ス
とある。橋は、長さ四間(約七・二m)・幅二間(三・六m)の「木橋」であったので、この親柱が建った「石橋」は、それ以後に架けられたことになろう。
このたび溝口駅北ロ再開発事業の工事にともない、さかえ橋の親柱石の一本が掘り出されたので、それをここに保存・展示し、地域に伝わる貴重な歴史を後世に伝承することにした。 |
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大山街道(県道14号鶴見溝ノ口線) 栄橋交差点 さかえ橋の親柱石 |
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大山街道(県道14号鶴見溝ノ口線) 栄橋交差点 大山街道案内板
栄橋交差点の南東角に設けられた大きな案内板で、右下には納太刀の絵が描かれている。
◆大山街道とは◆
江戸赤坂御門を起点として、雨乞いで有名な大山阿夫利神社(神奈川県伊勢原市)までの道。東海道と甲州街道の間を江戸へ向かう脇往還として、「厚木街道」「矢倉沢往還」等とも呼ばれ、寛文九年(一六六九)、溝口村・二子村が宿として定められた。
江戸時代中期には庶民のブームとなった「大山詣」の道として盛んに利用されるようになり、この頃から「大山道」「大山街道」として有名になった。
江戸後期には.駿河の茶、真綿、伊豆の椎茸、乾魚、秦野地方のたばこ等の物資を江戸に運ぶ輸送路として利用され、これらを商う商人たちで大変栄えた。
◆納太刀の習慣◆
大山詣は、江戸を中心とした関東一円の他、遠江、駿河、伊豆、甲斐、信濃、越後、岩代、磐城などにも及んでいたと推測されている。参詣の際には納太刀(おさめたち)をする習慣があり、自分の背丈よりも長い木太刀を担いでいる参詣者の姿が多くの浮世絵などに描かれている。 |
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大山街道(県道14号鶴見溝ノ口線) 栄橋交差点 大山街道案内板
二子橋までの名所旧跡が書かれており、訪問した場所の説明を記す。
溝口神社
赤城社と呼ばれた溝口の総鎮守。参道脇には水神宮や水道組合碑もある.
国木田独歩 文学碑
明治三十年、独歩が溝口の亀屋に一泊したことが、作品「忘れ得ぬ人々」を書く動機となった。
二子の渡し
二子橋が大正十四年に完成するまで、人々はここ二子の渡しで多摩川を渡った。 |
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大山街道(県道14号鶴見溝ノ口線) 栄橋交差点 大山街道案内板
宗隆寺と御会式
日蓮宗の寺。毎年御会式が十月二十一日の夜行われて いる。芭蕉の句碑や濱田庄司の墓もある。
二ヶ領用水と大石橋
小泉次太夫により稲毛・川崎の二ヶ領を潤す用水が、十四年にも及ぶ大事巣で完成した。
光明寺と二子学舎
浄土真宗。明治七〜九年、本堂に二子学舎が置かれ、近代小学教育の礎となった。
二子神社とかの子碑
「かの子碑」は岡本太郎作。毋を慕い「誇り」と題している。 |
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大山街道(県道14号鶴見溝ノ口線) 宗隆寺入口
入口案内を曲がると参道の先に山門が見える。 |
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大山街道(県道14号鶴見溝ノ口線) 宗隆寺
宗隆寺と御会式
日蓮宗のこの寺では、御会式が古くから行われ、その賑わいは、池上本門寺に次ぐという。今も十二月二一日の夜、近くの寺や講中から担ぎ出された万燈が、灯りの列を作って集まってくる。 |
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大山街道(県道14号鶴見溝ノ口線) 宗隆寺 |
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大山街道(県道14号鶴見溝ノ口線) 宗隆寺
宗隆寺が運営している高津幼稚園の送迎用バスが停まっている。 |
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大山街道(県道14号鶴見溝ノ口線) 溝口神社 |
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大山街道(県道14号鶴見溝ノ口線) 溝口神社
溝口神社と簡易水道
赤城社と呼ばれた溝口の総鎮守。この辺りは飲み水に不自由した。親井戸から水を引いた時代、ようやく完成させた簡易水道の時代。
参道わきの水神社や水道組合碑が当時の苦労を物語る。 |
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大山街道(県道14号鶴見溝ノ口線) 溝口神社 |
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大山街道(県道14号鶴見溝ノ口線) 溝口神社
参道沿いに色々な説明板が並ぶ。 |
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大山街道(県道14号鶴見溝ノ口線) 溝口神社
川崎の祈願所 溝口神社
《御祭神》
天照皇大神 日本武尊
《神社のいわれ》
神社の創立年代は定かではないが、神社保存の棟札によれば、宝永五年(一七〇九年)武州橘樹郡稲毛領溝口村鎮守、赤城大明神の御造営を僧・修禅院日清が修行したと記されている古社で、江戸時代まで神仏習合の神社として、溝口村の鎮守・赤城大明神と親しまれ、社名を赤城社と称しておりました。
明治維新後、神仏分離の法により、溝口村・下宿・中宿・上宿・六軒町・六番組の各部落を統合、総鎮守として祀るべく新たに伊勢の神宮より御分霊を奉迎し、御祭神を改め溝口神社と改称、更に明治六年(一八七三年)幣帛共進村社に指定されました。
今日では、伊勢神宮の分霊社として、川崎市内でも最も尊い神社の一社として広く信仰を仰いでおり、開運・厄除けをはじめ安産・子育て・縁結び・家内安全の御利益で広く知られております。
《お祭り》
毎年九月十五日に近い土・日曜日 |
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大山街道(県道14号鶴見溝ノ口線) 溝口神社 |