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駒沢通り けこぽ坂 祐天寺 山門 |
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駒沢通り けこぽ坂 祐天寺 東京都指定旧跡 祐天上人墓
祐天上人は江戸時代中期に活躍した浄土宗の高僧です。陸奥国岩城郡(福島県)四倉村に生まれ、伯父の芝増上寺内池徳院休波を訪ねて江戸に上がります。その後檀通を師として修学し、諸国修行の旅に出ました。
牛島で念仏生活を続けていたところ桂昌院の帰依を得て、将軍綱吉との關係も深まります。元禄一二年(一六九九)に下総国生実大巌寺の住持となり、宝永元年(一七〇四)には伝通院住持となりました。たびたび江戸城に召され、とりわけ大奥の人々が深く帰依しました。正徳元年(一七一一)将軍家宣より芝増上寺住持を命じられ、三十六世となり大僧正に任ぜられました。多数の寺院の復興などを行い、多くの人々の帰依を得ました。
正徳四年(一七一四)隠居し、享保三年(一七一八)に入寂しました。
祐天寺は、祐天上人の遺言により高弟祐海が念仏道場を建立したことに始まります。祐天を開山とし、祐海は二世となりました。
墓はいわゆる無縫塔で、倒卵部分の高さは九〇センチメートルを計ります。六角板状の基部があり「当寺開山 祐天大僧正」などと記されています。 |
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駒沢通り けこぽ坂 祐天寺 祐天寺(浄土宗)
祐天寺は、享保3年(1718)祐天上人を開山と仰ぎその高弟祐海上人が創建した寺院です。当時新しい寺院の建立は幕府の厳しい制約があって困難でしたが、祐天上人のかねてからの強い希望と、祐海上人の大変な努力によって、享保8年「明顕山祐天寺」の寺号が許されました。以来、将軍吉宗の浄財喜捨や特別の保護を受けるなど、徳川家と因縁のある寺として栄えてきました。
本堂には、「木造祐天上人坐像」が安置されています。この尊像は、将軍綱吉の息女松姫の寄進で、享保4年大仏師法橋石見の名作です(都指定文化財)。また、祐天寺第二世「祐海上人の木造坐像」(区指定文化財)等が安置されています。
本寺所蔵の「般若心経」1巻、「紺紙金字法華経巻第三」1巻(ともに都指定文化財)の2点は類例の少ない逸品です。
なお、境内には、将軍綱吉息女竹姫寄進の「仁王門」(区指定文化財)および阿弥陀堂や稲荷堂、将軍家宣夫人天英院寄進の梵鐘と鐘楼、地蔵堂など江戸時代の遺構を伝える建造物のほか、江戸消防ゆかりのもの、かさね供養塚などがあります。
墓地には、「祐天上人の墓」(都旧跡指定)や柳原愛子(大正天皇生母)の墓等の名墓及び「白子組並びに灘目の海難供養碑」(ともに区指定文化財)などがあります。 |
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駒沢通り けこぽ坂 祐天寺 木造祐海上人坐像
この像は祐天寺2世祐海56歳の姿を写した寿像です。元文2年(1737)に弟子たちが発願し、大仏師法橋石見により製作されました。
本堂に安置され、像高48.3cm。寄木造、彩色、一部金泥塗り、玉眼、円頂、頭部は襟際で挿首。法衣に環付の袈裟をかけ、合掌、趺坐の姿をしています。 祐海自著の銘文が墨書され、文化5年(1808)に胎内に祐海の遺書とともに納められました。
江戸時代中期の紀年を有する入念な肖像彫刻として貴重であり、内刳の内に箔押を施しているのは本尊祐天上人坐像にならったもので、大変珍しい遺例です。 |
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駒沢通り けこぽ坂 祐天寺 山門 |
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駒沢通り けこぽ坂 祐天寺 仁王門
仁王門 目黒区指定有形文化財(建造物)
この仁王門は仁王像とともに、享保20年(1735)の建立で、五代将軍綱吉の息女竹姫が寄進されたものです。
桁行8.5m(28尺)梁間4.3m(14尺)棟高9m(29.6尺)三間一戸八脚門切妻造本瓦葺型銅板葺(昭和6年茅葺よりふきかえ)円柱は欅材です。
正面の両脇間に享保20年法橋石見作の仁王像、背面の東脇間に持国天、西脇間に増長天像が安置され、ともに運慶の作と伝えられています。また、中央間の内側には正面に麒麟、背面に海馬の二獣神を配しています。なお、頭貫上の蟇股には十二支が彫られ、方位を示しています。
各虹梁、木鼻、肘木、蟇股に施された渦紋、若葉紋の彫りは力強さを感じさせ、木割、細部絵様等の建築様式の特徴は江戸中期の性格を留めています。
長い年月の間に幾度か修理・改修されていますが、軸部、組物、細部絵様等に変化なく創建当初の姿を保存しています。 |
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駒沢通り けこぽ坂 祐天寺 仁王門 |
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駒沢通り けこぽ坂 祐天寺 境内
仁王門から続く参道の先に本堂がある。 |
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駒沢通り けこぽ坂 祐天寺 本堂 |
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駒沢通り けこぽ坂 祐天寺 梵鐘
この梵鐘は、享保13年(1728)に6代将軍徳川家宣(文昭院)の17回忌追善のため、正室天英院一位夫人(煕子)が鐘楼とともに寄進されたものです。
本体の高さ192cm、口径102cm、目方1,200kgある目黒随一の巨鐘で、祐天寺内で鋳造されました。
翌年の4月14日から16日までの3日間にわたり、祐海上人を導帥として鐘楼には葵の御紋付き紫縮緬の幕が張られ多数の貴賓が参列し、盛大な鐘供養がおこなわれました。
鐘には、祐海上人が撰文した「明顕山祐天寺鐘銘并記」をはじめ、六字名号や偈および願文、時の将軍吉宗、願主天英院、御用懸、工匠の名などが刻まれています。
江戸の昔から昼12時に覚醒の法音として撞かれてきました。今でも正午に時の鐘として撞かれています。 |
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駒沢通り けこぽ坂 祐天寺 梵鐘 |
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駒沢通り けこぽ坂 祐天寺 かさね塚の由来 |
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駒沢通り けこぽ坂 祐天寺 かさね塚の由来
祐天上人は増上寺第三十六代の大僧正で徳川家五代〜八代まで歴代将軍の帰依を受け、四海に響く名僧であった。
寛文八年の頃、上人飯沼弘経寺に在住の頃、累一族の怨霊を化益された事蹟あり。
文政年間、鶴屋南北が歌舞伎に脚色上演し、天下の名作との誉れ高く、上人の遺徳愈々高まる。大正十五年、六世尾上梅幸、十五世市村羽左衛門、五世清元延寿太夫等が施主となり、現在地にかさね塚を建立し、累一族の霊を弔い、上人の威徳に浴することになった。
爾来、歌舞伎清元の上演者は必ず、この塚に詣で累一族を供養して興業の無事と、上演の盛会を祈願することが慣習となっている。 |
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駒沢通り けこぽ坂 祐天寺 阿弥陀堂
阿弥陀堂は、五代将軍徳川綱吉の息女竹姫の寄進で、享保9年(1724)4月に上棟されました。 同堂は、木割および細部絵様の簡潔でありながらしっかりとした線刻から考察しますと、江戸時代中・後期の特質を留めています。 各棟札の記載事項は、建築様式および沿革から判断して各々建立時や修復時のものであり信頼度の高いものです。また、当阿弥陀堂は幾多の修補・修復が行なれたにもかかわらず、回禄や倒壊などによる根本的な再造営は、行なわれなかったものと考えられます。 祐天寺は由緒ある名刹として有名ですが、このお堂は創建時の姿を伝えるものとして仁王門とともに重要なものです。特に常行堂としての扱われ方やその基本的な空間構成は往時のままであり、江戸中期の三間四面堂を知る上で貴重なものです。 〔注〕回禄とは火の神のこと。転じて火災のこと。 |
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駒沢通り けこぽ坂 祐天寺 阿弥陀堂 |
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駒沢通り けこぽ坂 祐天寺 大正天皇御生母 柳原一位局之墓
祐天寺の墓所は境内の東にある道の先にある。
柳原一位局とは従一位勲一等 柳原愛子のことである。大正天皇は昭憲皇太后(明治天皇皇后)が母と思っていたが、柳原愛子が実母と知った時に大きなショックを受けたと言われている。 |
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駒沢通り けこぽ坂 祐天寺 東京都史跡 祐天上人之墓
祐天上人については、駒沢通りの山門脇に詳細な説明板がある。 |