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鷲神社 裏道に建ち並ぶ露店
初めは国際通りに出て鷲神社の表参道から入るつもりだった。しかし、狭い道いっぱいに露店が並び、それが結構長いため、立ち寄ることにした。ちなみに、この道は南から北への一方通行である。
結果として、この選択は大正解だった。 |
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鷲神社 裏道に建ち並ぶ露店 |
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長國寺 熊手を売る屋台
案内はないが、鷲神社の北にある長國寺であろうと思い、路地に入っていく。 |
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長國寺 熊手を売る屋台 |
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長國寺 熊手を売る屋台 |
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長國寺 本堂
長国寺は、鷲神社の北側に隣接する。
当山は江戸時代、寛永7年(1630)に日乾上人によって開山されました。山号を鷲在山、寺号を長国寺と称し、法華宗(本門流)の寺です。宗祖を日蓮大聖人として開運招福の守り本尊である鷲妙見大菩薩が安置されています。
開山当時より、鷲妙見大菩薩の御開帳が11月酉の日に行われ、多くの参詣者を集めて門前に市が立つようになりました。それが浅草「酉の市」の発祥です。
長国寺の門前市であった浅草「酉の市」は、吉原などの隆盛とともに賑わいを増し、市で売られる縁起熊手等も持て囃され、江戸庶民にとって春を迎えるための欠かせない行事となりました。鷲妙見大菩薩は七曜の冠を戴き宝剣をかざして鷲の背に立つお姿から、「鷲大明神」「おとりさま」と呼び親しまれました。また「絵本江戸土産」では「破軍星」とも言われ、開運招福・商売繁昌・武運長久の御利益を授ける尊仏として厚い信仰を集めてきました。1年の無事に感謝し、来る年の幸を願う「酉の市」は江戸時代から続く伝統文化を今も変わらずに受け継いでいます。
当山、長国寺では明治初年の神仏分離令で「酉の寺」長国寺の一部が新たに鷲神社として分割されましたが、現在も 11月の酉の日には多くの善男善女を集めて、鷲妙見大菩薩の御開帳の法要を行い「酉の市」を開いております。 |
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長國寺 熊手を売る屋台 |
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長國寺 お守り受け所
学業守り、交通守りなど神社の初詣風景のようだが、右端には袈裟を着た僧侶が座っている。 |
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鷲神社入口
鷲神社は神仏分離令により長國寺から独立したので、境内はつながっている。 |
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鷲神社 熊手を売る屋台
長國寺よりも熊手の種類、数も多く、大型になっている。意味が分からないが、上段やや左の熊手は紫の座布団に座ったおばあさんが中央に配せられるなど、変わり熊手の数も多い。 |
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鷲神社 熊手を売る屋台
長國寺と違い、大型の熊手には企業の買取済みの貼られた物が多い。写真はサンリオの様々な人形が飾られており、人目をひく。 |
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鷲神社 熊手を売る屋台 |
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鷲神社 熊手を売る屋台 |
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鷲神社 社殿
鷲神社は、江戸時代「鷲大明神社」と称されていたが、明治のはじめ「鷲神社」と改称された。祭神は天之日鷲命・日本武尊の二神。草創は不明である。社伝によれば、天之日鷲命の祠に、日本武尊が東国征伐の帰途、熊手をかけて戦勝を祝った。この日が十一月酉の日で、以後、この日をお祭と定めたという。
酉の市は、江戸中期より冬の到来を告げる風物詩として発展し、足立区花畑を「大鳥」、浅草を「新鳥」と称した。浅草はとくに浅草観音・新吉原・猿若町芝居小屋を控え、賑いをみせた。 |
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鷲神社 熊手を売る屋台 |
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鷲神社 社殿
参拝する人で溢れかえっている。 |
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鷲神社 小鳥居
参拝客は屋台の熊手を見つつ、一寸刻みで社殿に向かう。 |
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鷲神社 熊手を売る屋台
熊手を買うと、露天商の発声で三三七拍子が行われる。
熊手はおもちゃのような小ぶりのものでも5〜6千円であり、少し見栄えのするものでは数万円である。三三七拍子は大型のもので行われ、会社としての購入である。 |
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鷲神社 熊手を売る屋台 |
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鷲神社 熊手を売る屋台
中央は犬、その右上は招き猫がびっしりと飾られおり、店によって特徴がある。 |
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鷲神社 大鳥居
鷲神社には正岡子規の句碑や、樋口一葉文学碑などがあるが、参拝客の大混雑で、近づくこともできない。 |
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鷲神社 大鳥居
もし予定通り、一葉記念館から国際通りを下り、大鳥居から入ろうとしたらこの参拝客の大混雑に巻き込まれていた。 |