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大徳寺−2 三門〜宗務本所〜高桐院

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大徳寺 三門(重要文化財) 大徳寺 三門(重要文化財) 

瑞峯院から三門前に出て、北上する。
大徳寺 参道を北上 大徳寺 参道を北上 

南から勅使門、三門、仏殿、法堂と並び、その先に宗務本所がある。
大徳寺 仏殿(重要文化財) 大徳寺 仏殿(重要文化財) 

 当山第一世大現国師により創建せらるるも応仁の乱にて消失、一休和尚等によって再建されるも、寛文5年(1665)那波常有によって改めて建造。
大徳寺 仏殿前から見た三門 大徳寺 仏殿前から見た三門 

三門前には柵があり、立ち入ることが出来ない。千利休切腹の一因となった木像が掲げられていた三門を間近に見たかったのに残念である。
大徳寺 三玄院 大徳寺 三玄院 

 天正十七年(一五八九)、浅野幸長・石田三成・森忠政(蘭丸の弟)が、春屋宗園(大宝円鑑国師)を開祖とし、創建した。
 小堀遠州・古田織部・藪内剣仲・長谷川等伯などは、春屋に禅を学んだ人々である。
沢庵・千宗旦らも修行をし、春屋・三成・忠政・剣仲・織部の墓がまつられている。
 織部好みの三畳台目・八窓の茶室篁庵(江戸時代建築)があり、本堂ふすま絵の八方にらみの虎は、原在中の筆による。
大徳寺 三玄院 大徳寺 三玄院 
大徳寺 法堂(重要文化財) 大徳寺 法堂(重要文化財) 

 正中2年(1325)夏、宗印禅者を檀越として修造を始める。これまた応仁の兵乱によって消失。一休和尚、仏殿を再建されて後、仏殿と兼用であった。
 寛永13年(1636)、開山国師三百年遠諱に当たり、江月和尚の参徒、小田原城主稲葉丹後守正勝、正則父子により現在地に再建。
 天井の龍は、狩野探幽35歳の筆による。
大徳寺 宗務本所 大徳寺 宗務本所 

 臨済宗大徳寺派の大本山で、広い寺城に別院二ヶ寺と二十一の塔頭を有する。
 鎌倉末期の正和四年(一三一五)に、大燈国師(宗峰妙超)によリ開創され、花園天皇と後醍醐天皇の厚い信仰を受けた。室町時代には、幕府の保護を辞退して在野の禅院として独自の立場を貫いた。応仁の乱で建物は焼失したが、「一休さん」として親しまれている四十七世住持の一休宗純が堺の豪商の保護を受けて復興し、豊臣秀吉や諸大名により建物や寺領が寄進され、江戸時代初期に現在の建物はほとんどと整えられた。
 三門・仏殿・法堂・経蔵・庫裏(以上いずれも重要文化財)・方丈(国宝)など、主要建物がすべて保存され、禅宗の典型的な伽藍配置を示している。唐門(国宝)は聚楽第の遺構と伝えられており、豪華な彫刻に飾られた桃山時代の代表的建物である。方丈の室内を飾る狩野探幽の襖絵(重要文化財)をはじめ、書画、古文書などの多くの寺宝を蔵する。
 茶祖・村田珠光、千利休など多くの茶人の帰依を受け、茶道とのかかわりが深い。
大徳寺 宗務本所 大徳寺 宗務本所 
大徳寺 参道を西進 大徳寺 参道を西進 

右には織田信長の総見院があるが、非公開である上、どこにあるのかさえ分からない。
大徳寺 瑞雲軒 大徳寺 瑞雲軒 
大徳寺 近衛家廟所 大徳寺 近衛家廟所 
大徳寺 高桐院角で左折、南下 大徳寺 高桐院角で左折、南下 
大徳寺 高桐院 大徳寺 高桐院 
大徳寺 高桐院 大徳寺 高桐院 

 大徳寺の塔頭の一つで、江戸時代初期の武将で茶人としても有名な細川忠興(三斎)が、父・幽斎の弟・王甫章早紹jを開祖として建立した細川家の菩提寺である。
 三斎は、千利休の七人の高弟(利休七哲)の一人に数えられる名手で、書院は利休の邸宅を移築したものとぃわれる。書院に続く茶室「松向軒」は三斉好みの二畳台目で、三畳の水屋が付き、壁や天井にも趣向が凝らされている。書院の庭は、江戸初期の作庭で、また、本堂の前庭は楓の樹を巧みに配してぃるのが特色てある。
 境内には三斎と夫人ガラシャのほか、歌舞伎の創始者とされる出雲阿国らの墓がある。三斎の墓標の石灯篭は、利休が秀吉の望みを断って三斎に贈ったものと伝えられてぃる。
大徳寺 高桐院 大徳寺 高桐院 
大徳寺 玉林院 大徳寺 玉林院 



 
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