万歩計 トップ テーマ別 目次 江戸風景 目次 江戸時代の有名人の墓所 目次 徳川家、大名・旗本、その他 目次      ページ ラスト 


万歩計



(From H14-10-28)

目次









掲示板(一言どうぞ)


徳川家の墓所

【関連サイト】   有名仏閣 東叡山寛永寺・上野東照宮
有名仏閣 芝増上寺
有名仏閣 伝通院・護国寺


【目次】
目次に戻る  
  (1)将軍廟所(上野寛永寺)    (2) 将軍廟所(芝増上寺) 
  (3)徳川慶喜 墓所(谷中霊園)   (4)伝通院


 直前のページに戻ります。

写真の一覧表へ 

(1)将軍廟所(上野寛永寺)    
上野寛永寺 徳川綱吉霊廟勅額門 上野寛永寺 徳川綱吉霊廟勅額門 

五代将軍綱吉は、延宝8年(1680)5月に兄・家綱の死に伴って将軍の座につき、宝永6年(1709)1月に63歳で死去した。

この門から先は毎度のことだが、入ることが出来なかった。
上野寛永寺 徳川綱吉霊廟勅額門 上野寛永寺 徳川綱吉霊廟勅額門 

 五代将軍綱吉は、延宝八年(1680)五月に兄・家綱の死に伴って将軍の座につき、宝永六年(1709)一月十日に六十三歳で没した。法名を常憲院という。
綱吉ははじめ、善政を行い「天和の治」と賛えられたが、今日では「生類憐みの令」などを施行した将軍として著名。
 元禄十一年(1698)九月、この綱吉によって竹の台に寛永寺の根本中堂が建立された。造営の奉行は柳沢吉保、資材の調達は紀之国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門である。また、それに伴って先聖殿(現・湯島聖堂)が上野から湯島に移されている。
 綱吉の霊廟は宝永六年の十一月に竣工したが、それは歴代将軍の霊廟を通じてみてももっとも整ったものの一つであった。ただ、その一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失した。この勅額門と水盤舎(ともに重要文化財)は、その霊廟と共にこれら災を免れた貴重な遺構である。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。
徳川綱吉の霊廟の勅額門 徳川綱吉の霊廟の勅額門 
上野寛永寺 徳川家綱霊廟勅額門 上野寛永寺 徳川家綱霊廟勅額門 

四代将軍家綱は、慶安四年(一六五一)四月に父・家光の死に伴って、わずか十才で将軍の座につき、延宝八年(一六八〇)五1月八日にに三十九才で没した。法名を厳有院という。

鶯谷駅近くで、地図ではこの裏に徳川家墓所があるはずだが、入ることは出来ない。
上野寛永寺 徳川家綱霊廟勅額門 上野寛永寺 徳川家綱霊廟勅額門 

 四代将軍家綱は、慶安四年(1651)四月父・家光の死に伴って、わずか十歳で将軍の座につき、延宝八年(1680)五月八日に三十九歳で没した。法名を厳有院よいう。
 病気がちであった家綱時代の政務は、主として重臣の手に任されていたが、とくに後半の政治を担当した大老・酒井忠清が有名である。時代は家綱の襲職直後に起こった由井正雪の乱の解決を機に、ようやく安定期に入った。
 家綱の霊廟の一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失したが、この勅額門と水盤舎は、その霊所と共に、これらの災いを免れた貴重な遺構である。
勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。
 なお、このうち水盤舎は延宝八年に家綱のために造立されたものであるが、この勅額門は昭和三十二年の改修時に発見された墨書銘によって、もと家光の上野霊廟の勅額門であったものを転用したものと考えられる。
   
(2) 将軍廟所(芝増上寺)    
増上寺 徳川家霊廟 増上寺 徳川家霊廟 
増上寺 徳川家霊廟 増上寺 徳川家霊廟 

 戦災に遇うまで、増上寺の南側に二代将軍秀忠、北側に六代家宣、七代家継などの御霊屋があった。これらは当時の建築技術の粋を結集したもので、各々国宝の指定を受けていたが、現在は入口の「鋳抜門」と二代将軍宝塔にその面影を残しているに過ぎない。
 将軍のほかには、静寛院宮(=和宮、家茂の御台所)、崇源院(家光の母、お江与)、桂昌院(綱 吉の母、お玉)などが合葬されている。
増上寺 徳川家霊廟 増上寺 徳川家霊廟 
重要文化財 芝増上寺 旧台徳院霊廟惣門 重要文化財 芝増上寺 旧台徳院霊廟惣門 

台徳院とは、2代将軍徳川秀忠の院号である。修築工事を終えた鮮やかな朱色の門である。
重要文化財 芝増上寺 旧台徳院霊廟惣門 重要文化財 芝増上寺 旧台徳院霊廟惣門 
重要文化財 芝増上寺 旧台徳院霊廟惣門 重要文化財 芝増上寺 旧台徳院霊廟惣門 

木造仁王像 二躯

重要文化財「旧台徳院霊廟惣門」の左右に安置されている寄木造り、砥粉地彩色の仁王像で、方形の台座に乗った岩坐の上に立っています。
 平成十六年から十七年に行われた修理の際に、体内から修理銘札が発見され、元は埼玉県北足立郡戸塚村(現在の川ロ市西立野)の西福寺(真言宗)仁王門に安置されていたもので、寛政元年(一七八九)、弘化三年(一八四七)のニ度にわたり修理が行われていることがわかりました。さらに安政二年(一八五五)の暴風で破損したまま同寺の観音堂の片隅に置かれていたものを、昭和二十三年(一九四八)、同寺三重塔の修理と同時期に三度目の修理が行われた後で、東京浅草寺に移されたことも記載されています。その後の経緯は詳らかではありませんが、昭和三十三年ごろまでにはこの惣門に安置されたと考えられます。
 本像は十八世紀前半までには江戸の仏師によって制作されたと推測され、江戸時代の仁王像として破綻のない作行きを示す貴重な作品です
芝増上寺 有章院霊廟 二天門 芝増上寺 有章院霊廟 二天門 
芝増上寺 有章院霊廟 二天門 芝増上寺 有章院霊廟 二天門 

有章院とは、7代将軍徳川家継の院号である。修築された旧台徳院(徳川秀忠)霊廟惣門との違いは歴然としている。
   
(3)徳川慶喜 墓所(谷中霊園)    
谷中霊園 徳川慶喜の墓 谷中霊園 徳川慶喜の墓 
谷中霊園 徳川慶喜の墓 谷中霊園 徳川慶喜の墓 

寛永寺ではなく、谷中霊園の南の端にあり、大原重徳の墓の近くにある。墓所は鉄柵があり、入ることは出来ない。
谷中霊園 徳川慶喜の墓 谷中霊園 徳川慶喜の墓 
谷中霊園 徳川慶喜の墓 谷中霊園 徳川慶喜の墓 

手前左側が徳川慶喜、右側が妻の墓である。
谷中霊園 徳川家墓地 谷中霊園 徳川家墓地 

いかにもと思わせる宝塔の頭がいくつか見えるが、建設現場にある白い防壁に囲まれており、入口を探したが分らなかった。
徳川家墓地に自由に入れるとなると、観光客が殺到するのを防ぐためとは思うが、寛永寺では一般の墓所に入るのも難しかった。
   
(4)伝通院    
伝通院に葬られている人々 伝通院に葬られている人々 
伝通院 墓所の案内図 伝通院 墓所の案内図 
伝通院 墓所の案内図 伝通院 墓所の案内図 
伝通院 徳川家康の生母 於大の方墓所 伝通院 徳川家康の生母 於大の方墓所 
伝通院 徳川家康の生母 於大の方墓所 伝通院 徳川家康の生母 於大の方墓所 
伝通院 豊臣秀頼妻の千姫の墓 伝通院 豊臣秀頼妻の千姫の墓 
伝通院 豊臣秀頼妻の千姫の墓 伝通院 豊臣秀頼妻の千姫の墓 
伝通院 徳川家光正室の孝子の墓 伝通院 徳川家光正室の孝子の墓 
伝通院 徳川家光正室の孝子の墓 伝通院 徳川家光正室の孝子の墓 
伝通院 千姫、孝子などの墓 伝通院 千姫、孝子などの墓 




 
万歩計 トップ テーマ別 目次 江戸風景 目次 江戸時代の有名人の墓所 目次 徳川家、大名・旗本、その他 目次      ページ トップ