(1)八百屋お七の墓(円乗寺) |
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都営三田線 白山駅 
八百屋お七の墓がある円乗寺は白山駅近くの住宅街の中にあり、分かりにくい。都営三田線の白山駅を白山下交差点を目標に出て、旧白山通りに向かう。 |
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旧白山通り 白山下交差点 
白山駅の一番南側の改札口(A1)から出て、左の寿司屋とマンションの間の小道を進む。 |
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八百屋お七の墓(円乗寺) 
白山下交差点から東のマンション脇の小道に入ってすぐの所にある。円乗寺と言う小さな寺の境内とも言えないような場所にある。
八百屋お七は鈴ヶ森刑場で火刑になったが、相手の吉三は出家して明王院で菩提を弔ったと言う。 |
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八百屋お七の墓(円乗寺) 
お七については、井原西鶴の「好色五人女」など古来いろいろ書かれ語られて異説が多い。
お七の生家は、駒込片町(本郷追分など)で、かなりの八百屋であった。天和の大火(天和2年(1682)12月、近くの寺院から出火)で、お七の家が焼けて、菩提寺の円乗寺に避難した。その避難中、寺の小姓の佐兵衛(または吉三郎)と恋仲になった。やがて家は再建されて自家にもどったが、お七は佐兵衛に会いたい一心でつけ火をした。放火の大罪で捕らえられたお七は、天和13年3月29日火あぶりの刑に処せられた。数えで16歳であったという。三基の墓石のうち中央は寺の住職が供養のため建てた。右側のは寛政年間(1789〜1801)岩井半四郎がお七を演じ好評だったので建立した。左側のは近所の有志の人たちが、270回忌の供養で建立したものである。 |
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八百屋於七地蔵尊(円乗寺) 
道沿いで円乗寺の境内入口に設けられている。 |
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このあたりは昭和三十九年八月一日施行の新住居表示によって白山の一部となるまでは「指ヶ谷町」と呼ばれていた。
その町名の由来について丙戌書上(鳳闇寺支配正宝院)は「町名指谷と相唱候儀、小石川村東の方凡五町程の場所字指谷と古来より申候間、右唱より町名に相成候儀と奉存候」云々と述べている。しかし、「指ヶ谷」の名の起りについては不明である。
なお、旧指ヶ谷町の東北端に位置したこの南縁山円乗寺は元和六年(一六二〇)宝仙法印によりて開山された天台宗の寺院である。境内には芝居などで有名になった八百屋お七の墓があ
る。寺小姓の左兵衛という美少年と恋におちいったお七は、吉三郎なる無頼の徒にそそのかされて我家に放火した。放火は未遂に終ったが、すぐ吉三郎と共にとらえられ、天和三年(一六
八三)三月二十九日火刑に処せられた。生年十■であったと伝えられている。
生年の部分は■で塗りつぶされている。 |
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民家に挟まれた狭い参道を進む。 |
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三基の墓石のうち中央は寺の住職が供養のため建てた。右側のは寛政年間(1789〜1801)岩井半四郎がお七を演じ好評だったので建立した。左側のは近所の有志の人たちが、270回忌の供養で建立したものである。
字が読めるのは左だけで、後は摩滅して読めない。 |
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(2) 鈴ヶ森刑場 火炙台 |
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鈴ヶ森刑場遺跡 火炙台 
八百屋お七を初め、火炙の処刑者は皆この石上で生きたまま焼き殺された。真中の穴に鉄柱を立て足元に薪を積み縛り付けて処刑されたのである。 |
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(3)目黒 大円寺の八百屋お七と吉三(西運)、雅叙園内の「お七の井戸」 |
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目黒 行人坂 大円寺 八百屋お七と吉三(西運)  |
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江戸時代本郷の八百屋の娘お七は天和二年(一六八二)の火事の際、自宅を焼かれしばらくの間、駒込の円林寺に仮住いしており、その時に寺小姓の吉三に恋したという。お七が十六才、吉三が十八才でした。恋こがれたお七は、吉三に会いたい一心で翌年自分の家に放火したために、江戸市中を引廻しの上、鈴ヶ森の処刑場で火刑に処せられた。
その後、一方の主人公「寺小姓吉三」はお七の処刑後僧となリ名を「西運」と改め諸国を行脚、後に大円寺の下の明王院(現雅叙園)に入ってお七の菩提を弔うため往復十里(約四十キロ)の道のりを浅草観音まで夜から明け方にかけて鉦を叩き念仏を唱え、隔夜日参り一万日の行を二十七年と五ヶ月かけて成し遂げ、お七が夢枕に立って成仏した事を告げられたことから「お七地蔵尊」を造った。又、西運は多くの江戸市民から浄財の寄進を受け、これを基金に行人坂に敷石の道を造り、目黒川に石の太鼓橋を架け社会事業の数々を行った。 |
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目黒雅叙園内の「お七の井戸」 
以前は目黒雅叙園の入り口にあったが、今は、横浜に移築されたとのことで無い。 |
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八百やの娘お七は、恋こがれた寺小姓吉三あいたさに自宅に放火し、鈴ヶ森で火刑にされた。
吉三はお七の火刑後僧侶となり、名を西運と改め明王院に入り、目黒不動と浅草観音の間、往復十里の道を念仏を唱えつつ隔夜一万日の行をなし遂げた。
明王院という寺院は、現在の目黒雅叙園エントランス付近から庭園に架け明治13年頃まであった。
この明王院境内の井戸で西運が念仏行に出かける前にお七の菩提を念じながら、水垢離をとったことから「お七の井戸」と言い伝えられている。 |