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(From H14-10-28)

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小塚原回向院、小塚原刑場遺跡

【関連サイト】 東京メトロ(旧営団) 日比谷線(平成19年)
都電沿線を歩く(南千住〜王子)(H16−02−14)


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南千住駅 南口のJR常磐線ガード 南千住駅 南口のJR常磐線ガード 

ガード手前右に小塚原回向院があり、常磐線と、次の日比谷線との間に小塚原刑場跡がある。

左には南千住駅があり、南から北への吉野通り沿いにある。
小塚原 回向院 小塚原 回向院 

営団地下鉄 日比谷線南千住駅傍にあり、両国回向院の別院である。来歴によると、小塚原で処刑された罪人は両国回向院に葬られたが、手狭になりここに葬られた。
江戸時代の処刑者は20万人と言われ、安政の大獄で処刑された吉田松陰、橋本左内を始め、ねずみ小僧、直侍、最後の処刑者 高橋お伝などの墓がある。
小塚原 回向院 小塚原 回向院 

回向院は、寛文七年(一六六七)、本所回向院の住職弟誉義観が、行路病死者や刑死者の供養のために開いた寺で、当時は常行堂と称していた。
 安政の大獄により刑死した橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎ら多くの志士たちが葬られている。
 明和八年(一七七一)蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが、小塚原で刑死者の解剖に立ち合った。後に『解体新書』を翻訳し、日本医学史上に大きな功績を残したことを記念して、大正十一年に観臓記念碑が建立された
小塚原 回向院 史跡参拝所 小塚原 回向院 史跡参拝所 

右から腕の喜三郎、最後の処刑者の高橋お伝、片岡直三郎(直侍)である。
腕の喜三郎は、罪人ではなく、怪我した腕を鋸で切り落とした任侠だそうである。
小塚原 回向院 史跡参拝所 小塚原 回向院 史跡参拝所 

右から片岡直三郎(直侍)、ねずみ小僧次郎吉である。ねずみ小僧の墓は両国回向院にもあり、どちらが正しいのかは知らない。
小塚原 回向院 史跡参拝所 小塚原 回向院 史跡参拝所 

約4年前に始めて来た時にはねずみ小僧などの墓は入口手前にあった。このような整備されたものではなかった。
小塚原刑場跡(延命寺) 小塚原刑場跡(延命寺) 

JRの高架の下にひっそりとあり、何回かこの近くまで来ていたが、気が付かなかった。
小塚原刑場跡(延命寺) 小塚原刑場跡(延命寺) 
小塚原刑場跡(延命寺) 首切地蔵 小塚原刑場跡(延命寺) 首切地蔵 

小塚原での刑死者の菩提を弔うため寛保元年(一七四一)に建立されたこの地蔵は、二十七個の花崗岩を組み合わせた全体の高さが四メートルに近い坐像で、台座には発願者・石工が刻まれている。奥州街道沿いにあったので、江戸に出入りする多くの人が目にしたという。明治二十八年(一八九五)に土浦線(現常磐貨物線)敷設工事のため線路の南側から現在地に移されたが、人々に安らぎを与えてきた慈悲の姿は変わるところがない。
小塚原刑場跡(延命寺) 首切地蔵 小塚原刑場跡(延命寺) 首切地蔵 
小塚原刑場跡(延命寺) 小塚原刑場跡(延命寺) 

江戸のお仕置場(刑場)は、品川の鈴ヶ森と千住の小塚原の二つである。
小塚原の刑場は、間口六十間余(約百八メートル)、奥行三十間余(約五十四メートル)で、明治のはじめに刑場が廃止されるまでに、磔・斬罪・獄門などの刑が執行された。
 首切地蔵は、この刑死者の菩提をとむらうため寛保元年(一七四一)に造立されたものである。
小塚原刑場跡(延命寺) 小塚原刑場跡(延命寺) 

小塚原刑場跡は延命寺となっており、南千住駅南口の向かい側にある。jJRなどの線路の向側には結構大きな跨線橋を渡る。
東京メトロ(旧営団) 日比谷線 南千住駅 東京メトロ(旧営団) 日比谷線 南千住駅 




 
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