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六区花道を東進 |
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六区花道を東進 浅草演芸ホール(東洋館)で開演を待つ人々
現在時刻は11:05であるが、開演を待つ列が折り返しになっていた。 |
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六区花道 浅草演芸ホール(東洋館)前で六区ブロードウェイを渡る |
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浅草 奥山おまいりみち 奥山大木戸
浅草演芸ホール(東洋館)前で六区ブロードウェイを渡ると奥山大木戸に着く。 |
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浅草 奥山おまいりみち 浅草江戸町案内図
浅草江戸町として北から「花やしきエンターティメント通り」、「お祭り商店街 西参道」、「奥山おまいりみち」の3商店街がある。「花やしきエンターティメント通り」は通称花やしき通りで、街並みが江戸時代の風景にされており、浅草のイメージに合わされている。 |
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浅草 奥山おまいりみちを東進 |
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浅草 奥山おまいりみち 大衆演劇 木馬館
大衆演劇の老舗劇場で、ちょんまげ姿の若い男優を相手に中高年のおばさん達が嬉しそうに(下卑た顔をして)記念写真を撮っているのもお馴染みの風景である。 |
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浅草 奥山おまいりみち 雷5656茶屋
奥山門手前に浅草名物の雷おこしの常盤堂の雷5656(ゴロゴロ)茶屋がある。 |
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浅草 奥山おまいりみち 奥山門 |
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浅草寺 五重塔脇を東進 |
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浅草寺 奥山(新奥山)
江戸の昔、今の浅草寺本堂の西北一帯は、俗に「奥山」と呼ばれ、江戸の盛り場として大道芸人や見世物小屋で大いに賑わう、著名な場所であった。
奥山の名の由来は記録にないが、おそらくその位置が本堂の奥にあることから名付けられたと思われる。
明治以後、その賑わいは浅草寺西側の浅草公園六区へと移り、六区は日本一の興行街・映画のメッカとして栄えたが、その前身が奥山だったといわれる。
現在は、この地を「新奥山」として整備し、諸碑が建立されている。この中には、往時の浅草の賑わいを伝える記念碑も建てられている。 |
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浅草寺 奥山(新奥山)
様々な碑や銅像があるが、面倒なので立ち寄らなかった。 |
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浅草寺 五重塔脇を東進 本堂 |
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浅草寺 境内案内図
日本語、英語、諺文(朝鮮語)の表記はあるが中国語(簡体文字)はない。台湾人は旧漢字を使用しているので日本語で理解できると思うが、表現がまるで違う中国人には読めないのではと思う。 |
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浅草寺 お守り拝受所裏 迷子しるべ石
昔、迷子が出た時には、この石碑でその旨を知らせた。
石碑の正面に「南無大慈悲観音菩薩」と刻み、一方に「志らする方」、一方に「たづぬる方」とし、それぞれに用件を記した貼紙で情報を交換した。情報未発達の時代には重宝され、「江戸」巾内の繁華な地に建てられたものの一つ。
安政七年(一八六〇)三月、新吉原の松田屋嘉兵衛が、仁王門(現宝蔵門)前に造立したが、昭和二〇年の空襲で倒壊したため、昭和三十二年に再建された。
外堀通りの一石橋南詰には安政4年(1857)に建立された一石橋迷子しらせ石標が残っている。 |
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浅草寺 お守り拝受所裏 迷子しるべ石 |
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浅草寺 本堂
外人だけではなく、修学旅行の中学生で境内は溢れかえっている。 |
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浅草寺 本堂右手奥の二天門 |
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浅草寺 浅草神社、二天門
二天門手前の左に浅草神社の鳥居がある。 |
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浅草寺 浅草神社
浅草神社の社殿脇には多くの石碑が建てられている。手前右の黒い石碑は河竹黙阿弥顕彰碑、左は花塚慰霊碑である。この他にも花柳壽輔碑、久保田万太郎句碑などがある。
三社祭は浅草寺に隣接する浅草神社の祭である。三社とは、約1,400年前に観世音菩薩像を網にかけた漁師兄弟と、土地の有力者3名を祭ったことによる。 |
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浅草寺 二天門 |
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浅草寺 二天門
この二天門は、慶安二年(一六四九)頃に浅草寺の東門として建立されたようであるが、江戸時代を通じて浅草寺観観音堂の西側に建てられた東照宮の随身門と伝えられ、随身像が安置されていた。なお、浅草寺の東照宮は元和四年(一六一八)に建立されたが、寛永八年(一六三一)と同一九年の火災によって、浅草寺の他の諸堂とともに焼火し、その後東照宮は江戸城内の紅葉山に移された。 明治初年の神仏分離令によって門に安置された随身像は、仏教を守護する四天王のうち持国天・増長天の二天像に変わり、名称も二天門と改称した。 現在安置されている二天像は、京都七条の仏師、吉田兵部が江戸時代初期(十七紀後半)に制作したもので(東京都指定有形文化財)、昭和三十二年に寛永寺の厳有院殿(四代将軍徳川家綱)霊廟の勅使門から移されたものである。 二天門は昭和ニ十五年、国指定重要文化財に指定された。 |