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国道25号線を西進 |
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国道25号線を西進 今宮戎神社交差点で右折 |
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今宮戎神社交差点の先にある今宮戎神社 |
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今宮戎神社 正門(南の鳥居)
境内南側にある石造りの鳥居。中央のほか、左右に脇鳥居が付いた美輪鳥居形式の鳥居です。 |
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今宮戎神社
御祭神
本社
天照坐皇大御神 事代主神 素盞嗚命 月読尊 稚日女尊 大国主命 五男三女八柱神 宇賀御魂神
御由緒
当社の創建は皇紀千二百六十年(西暦六百年)即ち推古天皇八年に聖徳太子が四天王寺建立に当たり、同地西方の守護神として鎮斎されたと伝えられてぃます。
江戸時代に入ると十日戎のお祭りが始まり、元禄時代には今日と同じような祭礼となり、当時の記録・地誌等に盛大な様子を伝えています。
鯛に釣竿を持つえびす様は、そのお姿からも判るように、もとは漁業を司る神でしたが、四天王寺西門に浜の市が立ち、市の守り神として奉斎され、やがて経済の発展とともに商売繁盛・福徳円満をくまなく授けて下さる神様となりました。
十日戎 豊臣時代の頃になりますと庶民のえびす様への信仰はより厚くなり、また豊臣秀頼は片桐且元に社殿造営の普請奉行を命じています。
またこの頃より市街が発達し、大阪町人の活躍が始まり、江戸期になると大阪は商業の町としてより一層の繁栄を遂げ、それと期を一にして今宮戎神社も大阪の商業を護る神様として篤く崇敬されるようになりました。十日戎の行事もこの頃から賑わいをみせ、延宝三年(一六七五)の現存する最も古い大阪案内の図「葦分舟」にも十日戎の状景が描かれています。明治には、それまでの問丸が雑喉場の魚市場、材木商組合、麻苧商組合、蝋商組合、漆商組合、金物商組合等が講社を結成し、十日戎はより一層盛んになりました。
このように時代とともに盛大になってゆく祭礼ですが、惜しくも昭和二十年の戦災で神社はことごとく焼失しました。
本殿が復興し、再び十日戎も活況を呈するようになり、現在では年の最初のお祭りとして十日戎の三日間に約百万人を超える参詣者があります。 |
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今宮戎神社
一般に「今宮の戎さん」の名で親しまれている。創建は古く推古天皇8年(600)、四天王寺の西方守護神として祀られたという。市場鎮護の神として尊崇され平安中期の記録によれば日毎宮中へ鮮魚を献上したと伝えられる。この市場鎮護の戎神が商売繁栄の神とされ、以後人々の崇敬を受けるようになった。・第2次世界大戦で建物は焼失したが、昭和31年本殿、拝殿等が復興された。1月9日〜11日の「十日戎」は、100万人を超える人で賑わう。 |
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今宮戎神社 |
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今宮戎神社 拝殿
境内は白い玉砂利が敷きつめられており、青銅製の狛犬と注連鳥居の奥に拝殿があります。拝殿は、本殿とともに1956年(昭和31)に再建されたもので、拝殿の奥には、豪華な金箔地に描かれた巨大な鯛の絵が掛かっています。 |
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今宮戎神社 |
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今宮戎神社 北門から出て左折
高架は阪神高速1号環状線である。 |
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突き当りの南海本線高架交差点で右折
南海本線の高架を特急が難波駅に向かう。 |
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南海本線高架沿いに北上 |
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南海本線高架沿いに北上 |
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南海本線高架沿いに北上 ヤマダ・ウッドハウスなんば展示場
南海本線の高架沿いには目標となる建物や交差点がなく、地図のどこを歩いているのか分からない。 |
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南海本線高架沿いに北上 なんばCITY入口
南海本線高架沿いに歩いていると、ようやくなんばCITYの入口を発見することができた。しかし、入口は南海本線の高架のほぼ中央の小さな一画で、見落とす可能性が高く、西側のトイザらス なんばパークスを目標にしたほうが良い。 |
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南海本線高架沿いに北上 なんばCITY入口 東側風景 |
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南海本線高架沿いに北上 なんばCITY入口 西側側風景 トイザらス なんばパークス |
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南海本線高架沿いに北上 なんばCITY入口 |
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なんばCITY 南館を北上
南館を北上するにつれ、店の格が居酒屋から、小料理店、料亭へと変化していく。料理も和風から、ヨーロッパ風へと変化していく。 |
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なんばCITY 南館を北上 |
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なんばCITY 南館を北上
居酒屋からレストランへと変化S,続いてファッション関係の店へと変わっていく。 |
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なんばCITY 南館を北上 |
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なんばCITY 南館から蔵前通りを渡り本館へ |
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なんばCITY 南館から蔵前通りを渡り本館へ |
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なんばCITY 本館を北上 南海なんば駅 |
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なんばCITY 本館を北上 大阪高島屋 |
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なんばCITY 本館を北上 なんばマルイ |