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桜田通り(国道1号) 右折して幽霊坂を上る
長松寺の少し先に幽霊坂の標識があり、そこから坂を上る。 |
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桜田通り(国道1号) 右折して幽霊坂を上る
ゆうれいざか
坂の両側に寺院が並び、ものさびしい坂であるためこの名がついたらしいが有礼坂の説もある。幽霊坂は東京中に多く七か所ほどもある。
この一帯は寺町で、坂を上ると伊皿子坂交差点から田町駅に向かう尾根伝いの聖坂に出る。
ちなみに乃木坂も幽霊坂と言われていたが、乃木大将の自刃後に乃木坂と言われるようになった。 |
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桜田通り(国道1号) 右折して幽霊坂を上る |
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幽霊坂を上る |
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幽霊坂 中腹にある玉鳳寺
この一帯は有名な寺町で、玉鳳寺を始め、多くの寺が並ぶ。 |
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幽霊坂 中腹にある玉鳳寺 |
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幽霊坂 突き当りで左折、聖坂へ
聖坂は、細川家下屋敷がある二本榎通りが伊皿子交差点から改称したもので、尾根伝いに平坦な道が続き、三田間近で坂となる。 |
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聖坂との交差点から見た幽霊坂
上り始めと終わりが急で、結構長い坂である。 |
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聖坂 亀塚公園 |
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聖坂 亀塚公園 芝生広場
後方の高層ビルは第一京浜に面している住友不動産三田ツインビル西館である。 |
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聖坂 亀塚公園 亀塚
古くから坪井正五郎博士等によって古墳と指摘され、広く知られていましたが、詳細な学術調査が行なわれず、古墳であると決めることはできませんでした。昭和四五・四六年、港区教育委員会が主体となり、慶応義塾大学が測量調査および発掘調査を実施した結果、この塚が古墳時代以後に築造されたことが明らかとなりました。さらに平成一四・一七・一八年に、港区教育委員会が亀塚と周辺の調査を実施し、亀塚の構築状況を明らかにしました。 しかし、埋葬施設や周濠の存在は明確ではなく、依然として古墳と断定することはできていませんが、その可能性は高いと考えられます。 また、平安時代に書かれた「更級日記」に見える竹芝寺の伝説地とも伝えられ、文明年間(一四六九〜八七)には、太田道灌が斥候(ものみ)を置いたと伝えられています。 江戸時代には、この地を屋敷地としていた沼田城主土岐頼煕が、これらの旨を記した「亀山碑」を頂上に建て、現在に伝えています。 |
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聖坂 亀塚公園 亀塚 |
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聖坂 亀塚公園 児童遊園 |
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聖坂 亀塚公園 公園付近沿革案内
亀塚公園は緑色の一画で、茶色は寺社(ほとんどが寺地)である。一帯がいわゆる寺町であることがよく分かる。
この公園付近は、江戸時代、上野沼田藩土岐家の下屋敷で、明治維新後は皇族華頂宮邸となった。 ここは三田台から高輪、ハツ山に及ぶ一連の丘陵地の東端で、邸内には老木、大樹が茂り、遥かに房総の山々を一望のもとに見晴らす勝地であった。西側の道路は古奥州街道にあたり、江戸開府前の主要道路であった。この地は、平安時代、菅原孝標の女が著した「更級日記」に紹介された竹芝皇女の物語の遺跡といわれ、亀塚の伝説が残されている。塚は古墳とみられるが、人工の築山であることのほか、その証拠はえられてない。華頂宮が廃家となり、一時内大臣官邸となったが、昭和8年建物はこわされ、さらに昭和20年戦災をうけ、昔の趣きを失った。 昭和27年11月3日港区立公園として開園した。 |
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聖坂 亀塚公園 案内図
現在地は上辺右端で、右下に亀塚古墳がある。 |
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聖坂 住友不動産三田ツインビル西館
住友不動産三田ツインビル西館は。高さ180m弱の高層オフィス、マンション棟で、第一京浜に面している。 |
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聖坂を下る
聖坂は、古代、中世の通行路で、商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所があったためという。竹芝の坂と呼んだとする説もある。 |
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聖坂を下る |
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聖坂 普連土(フレンド)学園
明治20年創設の女子校である。普連土学園は尾根沿いにあるため、幼稚園に入るまで生まれ育ち、祖父母がいた桜田通りの芝豊岡町からよく見えた。ちなみに昭和30年代前半までは、とんびがよく飛んでいた。 |
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聖坂 阿含宗関東別院 |
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聖坂 ちぃばす(高輪ルート) #149 バス停 三田三丁目 |
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聖坂 突き当りを右折、都道301号(白山祝田田町線)へ |
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都道301号(白山祝田田町線) 三田二丁目交差点で桜田通りに合流 |
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桜田通り 三田二丁目交差点 慶応大学 三田キャンパス |