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二本榎通り(メリーロード高輪) 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川家 下屋敷跡)
旧高松宮邸(高輪皇族邸)の先にある都営高輪一丁目アパートの奥にあるが、これが「都営」と思うほどややけばけばしい色彩のアパート群である。 摩滅した「大石良雄等自刃ノ跡」の碑がなければ見落とすし、自刃跡地も一番奥なので分り難い。
この地については、細川藩中屋敷とする資料もある。「大石良雄外十六人忠烈の跡」碑によれば、下屋敷とあり、ここでは後者を採った。 |
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二本榎通り(メリーロード高輪) 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川家 下屋敷跡)
都営高輪一丁目アパートの奥に塀で囲われた一画があり、そこが大石良雄等自刃ノ跡である。
イベントでこの一画を訪れることがあるが、数千人規模の参加者がいるためこのルートは使わず、係員を配置して団地外の道から直接自刃跡に立ち寄るようにしている。 |
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二本榎通り(メリーロード高輪) 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川家 下屋敷跡)
鍵の掛かった門があり、立ち入ることはできない。 |
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二本榎通り(メリーロード高輪) 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川家 下屋敷跡)
大石良雄外十六人忠烈の跡
この地は、赤穂事件で大石内蔵助良雄ら十七人が預けられた肥後熊本藩(五十四万石)細川越中守下屋敷の一部である。赤穂事件とは、元禄十四年(一七〇一)三月十四日におこった殿中刃傷事件とその翌年十二月十四日の夜から十五日にかけての吉良邸討ち入り及びその処分など一連の事件をいう。当時の藩主五代綱利は、十二月十五日老中稲葉丹後守正往(下総佐倉藩主)から大石内蔵助外十六人御預けの命を受けると、総勢八七五人に十七挺の駕龍と予備として五挺の駕龍を用意させ、大目付仙石伯耆守久尚の屋敷に送った。引渡を受けたのは午後十時頃で、この地に到着したのは午前二時過ぎであった。この様な大部隊を繰出したのは、藩の威武を示すとともに上杉家が親の仇たる四十六士を襲撃するかもしれないとの噂があったためである。細川藩の威力と識見を以て優遇し、御預四家のうちで即日引見したのは細川家だけであった。 元禄十六年(一七〇三)二月四日午後二時、上使の御目付荒木十左衛門政羽とお御使番久永内記信豊から切腹を申渡し、大石内蔵助が一同を代表して「切腹仰せ付けられ候段有り難き仕合に存じ奉り候」と礼を述べて御請した。家臣の中から介錯人を出すよう命ぜられた細川家は十七人の切腹に十七人の介錯人を選定した。切腹の場所は大書院舞台側、大番院上の間の前庭で、背後に池を負った位置である。切腹の座には畳三枚を敷き並べ(細川家以外は二枚)その上に木綿の大風呂敷を展べ、背後も左右も白の幔幕を張り廻らした。大石内蔵介は安場一平の介錯で切腹した。大石良雄外十六人は、浅野家の菩提寺泉岳寺に葬られている。 |
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二本榎通り(メリーロード高輪) 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川家 下屋敷跡)
赤穂義士史跡碑
正義を愛し名節を重んじる者は暫くここに歩を停めよ
此処は徳川時代細川邸の跡 実に赤穂義士の総帥大石良雄等十七名が元禄十六年二月四日壮烈な死を遂げた現場である。
細川家は藩主を始めとし赤穂義士を武士の鑑として厚遇したことで知られ、罪人扱いした毛利家などと違い、夕食時には酒も出した。 |
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二本榎通り(メリーロード高輪) 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川家 下屋敷跡)
大石内蔵助以下16名の名前と享年が書かれている。 |
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二本榎通り(メリーロード高輪) 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川家 下屋敷跡)
門の隙間越しに撮った庭の風景である。2ヶ月前の10月に立ち寄った際は雑草に覆われており、除草したものと思われる。 |
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二本榎通り(メリーロード高輪) 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川家 下屋敷跡) |
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二本榎通り(メリーロード高輪) 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川家 下屋敷跡)
「お供えを含め、物を放置するのはご遠慮ください。」との注意板を初めて見た。
泉岳寺の義士祭に出た人が場所も分かりやすい細川家藩邸に立ち寄ることを想定したものと思われる。 |
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都営高輪一丁目アパートから出て左折、二本榎通り(メリーロード高輪)へ |
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二本榎通り(メリーロード高輪) 伊皿子交差点で左折、都道415号高輪麻生線 魚籃坂へ
直進すると聖坂と名前が変わり、亀塚公園を経て三田に向かう。 |
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都道415号高輪麻生線 魚籃坂を下る |
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都道415号高輪麻生線 魚籃坂 魚籃寺 |
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都道415号高輪麻生線 魚籃坂 魚籃寺 |
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都道415号高輪麻生線 魚籃坂
坂の中腹に魚籃観音を安置した寺があることから名付けられた。 |
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都道415号高輪麻生線 魚籃坂 |
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都道415号高輪麻生線 魚籃坂下交差点で右折、桜田通りへ |
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桜田通り(国道1号) 長松寺 荻生徂徠墓
江戸時代中期の儒学者。字は茂郷、通称惣右衛門、徂徠は号である。寛文六年(一六六六)江戸に生まれた。十四歳から十三年間、父方庵に従って上総国長柄郡本納村に流寓の生活を送り、独学自習、将来の学問の基礎を築いた。元禄三年(一六九〇)江戸に戻り、柳沢吉保に用いられ、将軍綱吉にもしばしば儒学を講義するようになった。綱吉没後、日本橋茅場町に家塾「蘐園」を開いた。家学を重んじ、伊藤仁斎の復古学を批判し、古文辞学を大成した。その学問は経学のみでなく江戸後期の政治、経済、文学等に大きな影響を与えた。「論語徴」「明律国字解」「訓訳示蒙」「蘐園随筆」等多くの著書がある。将軍吉宗の諮問に応えて享保七年(一七二二)「政談」を幕府に献上した。享保十三年(一七二八)一月十九日六十三歳で死去した。 |
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桜田通り(国道1号) 長松寺 荻生徂徠墓 |
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桜田通り(国道1号) 長松寺 荻生徂徠墓
赤穂義士の吉良邸討ち入り後、その処分をめぐって幕府内の意見が割れた。主君の仇を討った忠義の士として助命論の声も高かった。それに対し、荻生徂徠は浅野内匠頭の処刑は法に基づくものであり、吉良邸討ち入りは法に背くものである、として処刑ではあるが、名誉刑の切腹とすることで関係者の体面を損なうことなく処理をしたことで知られる。 |
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長松寺 荻生徂徠墓
長松寺は桜田通りの魚籃坂下交差点を少し行った所の右手にある。隣に大きな念願寺があり、一見そちらが長松寺のように見える。 |
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長松寺 荻生徂徠墓 |
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長松寺 荻生家墓所
長松寺の墓所に入ると、右奥に荻生家の墓所がある。 |
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長松寺 荻生徂徠墓
荻生徂徠(寛文六年(一六六六)-享保十三年(一七二六))の墓
名は雙松、字は茂卿、通称惣右噺門、徂徠はその号であり、物部氏の出を称したところからしばしば物茂卿と自署した。 徂徠は徳川時代の最大の儒者の一人であり、大東の文章我を俟ってはじめて興ると自ら豪語したのは必ずしも誇張ではない。彼の学問は日本儒学史に一大転換をもたらしただけでなく、清朝の儒者からも高い坪価を受けた。 〔学問の特色〕 父方庵の赦免によって南総から江戸に戻り、元禄九年(一六九六)柳沢吉保に仕えて、五代将軍綱吉の知遇を得て儒学を講じた。その頃から早くも徂徠は中国語の会話に関心を持っていたが、言語の構造の歴史的変遷に着目する彼の方法はやがて「古文辞学」に結晶し、享保以後朱子学にたいする体系的批判の展開となって、学会に大きな衝撃を与えた。江戸後期の経学は朱子学者を含めて、積極、消極両面で徂徠の影響なしには考えられない。徂徠が綱吉没後、日本橋茅崎町に開いた私塾は地名にちなんで「蘐園 」と名付けられたが、これはまた徂徠学派の別名ともなった。(以下略) |
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長松寺 荻生家墓所案内
以前はなくて墓銘を見ながら荻生徂徠の墓を探したが、丁寧な案内が付けられている。 |
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長松寺 荻生徂徠墓
荻生徂徠は、江戸中期の儒学者で、5代将軍の徳川綱吉にもしばしば儒学を講義した。 赤穂義士の処分について、治安を乱したとして重罰を加えるべきと言う意見と、忠義の士として顕彰すべきとの意見で幕府内の議論がまとまらない時、治安を乱した罪で死罪だが、武士の名誉を重んじた切腹を綱吉に建議したことでも有名。 |
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長松寺 荻生徂徠墓
墓の裏面には墓誌が書かれているが、全く読むことができない。 |
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長松寺 荻生家墓所 |