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都営浅草線 浅草駅
都営浅草線 浅草駅〜浅草寺(本堂〜二天門)〜花川戸公園〜隅田公園(西岸)(東参道交差点〜東京大空襲 慰霊碑)〜桜橋〜隅田公園(東岸)〜向島 言問団子〜見番通り(長命寺〜弘福寺〜三囲神社)〜隅田公園(東岸)(魚釣り場〜言問橋〜牛嶋神社〜花見広場)〜本所吾妻橋駅
【撮影記録】
平成30年 3月 24日 晴れ
10:20〜12:25 7,300歩(概算 4.8km 地図上の距離 3.7km)
1ヶ月前まで厳寒だったのが信じられないほど暖かくなり、月曜(19日)に開花したと思ったら、週末には満開とのことで慌てて撮影に向かった。隅田公園は東岸、西岸ともにきれいに咲いていたが、下の枝は満開だが、上の方はまだ5分咲だった。
桜見物の外人も多く、東南アジアのイスラム教徒も見かけた。マナーの悪さと服装のだらしなさで悪評の中国人も、団体ではなく家族や若い人グループとなり、目立たなくなっていた。ただ季節外れの浴衣姿でポーズをとっているのが場違いでおかしい。 |
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江戸通り 雷門郵便局前で地上に出て右折、東進
いつもは銀座線で浅草に出るが、花見客で混雑が予想されるため最初の地下鉄ということもあり、駅の数が多くて時間がかかるので都営浅草線を利用した。しかし、出口がよく分からず、地上に出たら見慣れない風景だったが、右手に松屋浅草が見えたので位置関係が分かった。 |
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江戸通り 吾妻橋交差点で雷門通りを渡り、左の馬道通りに進む
吾妻橋交差点は5差路で、正面の松屋浅草で2つに分岐して左の馬道通りに進む、江戸通りは右側を直進する。 |
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江戸通り 吾妻橋交差点 神谷バー
神谷バーは日本最初のバーとして浅草の文豪に愛され、電気ブランで有名である。大正10年に建てられた神谷ビルは浅草で最古の鉄筋コンクリート造りで、平成25年に国の登録有形文化財に登録された。
電気ブランは電気が珍しかった明治時代に誕生したブランデーベースのカクテルである。当時最新のものに関する「電気」を冠したのが名前の由来である。
浅草の名物として有名ななため、かつて神谷バーで売られている電気ブランのボトルを買って飲んだが、アルコール度数40度とは言うものの、ブランデーの風味も何もなく、甘くてとても飲めたものではなかった。
ちなみに息子が学生時代にデート中に同じボトルを買ってきたが、なんだかんだと理由をつけて飲まない両親に怪訝な顔をしつつ、飲んだ途端に甘すぎて飲めないと吐き出し、妻と大笑いをした。 |
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馬道通り 吾妻橋交差点 松屋浅草 |
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馬道通り 新仲通り入口交差点で左折、新仲通りへ |
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新仲通りを西進 |
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新仲通り 芋ようかんの舟和前で右折、仲見世通りを北上
左折すると雷門である。 |
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浅草寺 仲見世通りを北上
花見シーズンなので造花の桜が飾られている。聞こえるのは中国語ばかりで、季節外れの浴衣姿の女性グループも見える。 |
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浅草寺 仲見世通りを北上
外国人の歩みが遅くて、なかなか前に進めない。 |
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浅草寺 仲見世通りを北上
いつもに比べ観光客が少ないにも関わらず、あまりに先に進めないのでふと右を見たら東京タワーが見えた。写真を撮る人が多い。 |
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浅草寺 仲見世通りを北上 |
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浅草寺 宝蔵門前の満開の枝垂れ桜
枝垂れ桜の種類が違うのか、左右の桜の色合いが微妙に異なる。 |
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浅草寺 宝蔵門前の満開の枝垂れ桜 |
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浅草寺 宝蔵門前の満開の枝垂れ桜 |
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浅草寺 宝蔵門、五重塔
1年かけて昨年(平成29年)秋に塗り直された五重塔だが、光輝く九輪(相輪)も美しい。 |
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浅草寺 宝蔵門 |
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浅草寺 本堂 |
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浅草寺 本堂横 熱中症計はほぼ安全
現在時刻は10:40で、温度28.0℃、湿度は52%、熱中症計はほぼ安全である。
今日は暖かく、桜の開花が一気に進むとは聞いていたが、まさか温度が28.0℃とは思わなかった。着ていたブルゾンを脱ぎ、厚めのシャツの両袖を捲りあげて歩くことにした。 |
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浅草寺 浅草神社、二天門 |
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浅草寺 浅草神社
浅草神社の社殿脇には多くの石碑が建てられている。手前右の黒い石碑は河竹黙阿弥顕彰碑、左は花塚慰霊碑である。この他にも花柳壽輔碑、久保田万太郎句碑などがある。
三社祭は浅草寺に隣接する浅草神社の祭である。三社とは、約1,400年前に観世音菩薩像を網にかけた漁師兄弟と、土地の有力者3名を祭ったことによる。 |
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浅草寺 二天門 |
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浅草寺 二天門
この二天門は、慶安二年(一六四九)頃に浅草寺の東門として建立されたようであるが、江戸時代を通じて浅草寺観観音堂の西側に建てられた東照宮の随身門と伝えられ、随身像が安置されていた。なお、浅草寺の東照宮は元和四年(一六一八)に建立されたが、寛永八年(一六三一)と同一九年の火災によって、浅草寺の他の諸堂とともに焼火し、その後東照宮は江戸城内の紅葉山に移された。
明治初年の神仏分離令によって門に安置された随身像は、仏教を守護する四天王のうち持国天・増長天の二天像に変わり、名称も二天門と改称した。
現在安置されている二天像は、京都七条の仏師、吉田兵部が江戸時代初期(十七紀後半)に制作したもので(東京都指定有形文化財)、昭和三十二年に寛永寺の厳有院殿(四代将軍徳川家綱)霊廟の勅使門から移されたものである。
二天門は昭和ニ十五年、国指定重要文化財に指定された。 |