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花川戸公園〜隅田公園(西岸)(東参道交差点〜東京大空襲 慰霊碑)

【関連サイト】   梅雨の晴れ間の浅草散策(ほおずき市、隅田公園、長命寺、弘福寺、三囲神社、牛嶋神社)H280710(吾妻橋〜隅田公園(西岸)〜桜橋)

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 東参道・二天門通り 二天門前交差点で馬道通りを渡る 東参道・二天門通り 二天門前交差点で馬道通りを渡る 

正面に東京スカイツリーを見ながら東進する。
東参道・二天門通り 台東区民会館前を東進 東参道・二天門通り 台東区民会館前を東進 

台東区民会館の前は大型観光バスの駐車場だったが、拡張された花川戸公園になっていた。かなり広い駐車場だったので追い出されたバスがどこに行ったのかは不明である。
東参道・二天門通り 花川戸公園 東参道・二天門通り 花川戸公園 
東参道・二天門通り 花川戸公園 履物問屋街発祥碑 東参道・二天門通り 花川戸公園 履物問屋街発祥碑 
東参道・二天門通り 花川戸公園 姥ヶ池之旧跡 東参道・二天門通り 花川戸公園 姥ヶ池之旧跡 

 蛯ヶ池は、昔、隅田川に通じていた大池で、明治二十四年に埋立てられた。浅草寺の子院妙音院所蔵の石枕にまつわる伝説に次のようなものがある。
 昔、浅茅ヶ原の一軒家で、娘が連れ込む旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がおり、ある夜、娘が旅人の身代わりになって、天井から吊るした大石の下敷になって死ぬ。それを悲しんで悪業を悔やみ、老婆は池に身を投げて果てたので、里人はこれを蛯ヶ池と呼んだ。
東参道・二天門通り 花川戸公園 姥ヶ池之旧跡 東参道・二天門通り 花川戸公園 姥ヶ池之旧跡 
東参道・二天門通り 花川戸公園 助六歌碑 東参道・二天門通り 花川戸公園 助六歌碑 

助六歌碑

 碑面には、
  助六にゆかりの雲の紫を
    弥陀の利剣て鬼は外なり 団洲
の歌を刻む。九世市川団十郎か自作の歌を揮毫したもので、「団洲」は団十郎の雅号である。
 歌碑は、明治十二年(一八七九)九世市川団十郎が中心となり、日頃世話になっている日本橋の須永彦兵衛(通称棒彦)という人を顕彰して、彦兵衛の菩提寺御顔寺(現、清川一ー四一六)に建立した。大正十二年関東大震災で崩壊し、しばらくは土中に埋没していたが、後に発見、碑創建の際に世話役を務めた人物の子息により、この地に再建された。台石に「花川戸鳶平治郎」、碑裏に「昭和三十三年秋再建 鳶花川戸桶田」と刻む。 歌舞伎十八番の一つ「助六」は、二代目市川団十郎が正徳三年(一七二三)に初演して以来代々の団十郎か伝えた。ちなみに、今日上演されている「助六所縁江戸桜」は、天保三年(一八三二)上演の台本である。助六の実像は不明だが、関東大震災まで浅草清川にあった易行院(現、足立区伊興町狭間八七〇)に墓がある。
東参道・二天門通り 花川戸公園 助六歌碑 東参道・二天門通り 花川戸公園 助六歌碑 
東参道・二天門通り 花川戸公園 旧町名由来 東参道・二天門通り 花川戸公園 旧町名由来 

旧浅草花川戸一・二丁目

 本町は、昭和九年(一九三四)、この地にあった町を整理統合し誕生した。
浅草花川戸一丁目は、浅草花川戸町大部、同馬道町四丁目東部、同馬道町六丁目南側一部、山ノ宿町南隅を合した。浅草花川戸二丁目は、浅草馬道町六丁目東部、同猿若町一丁目南側一部、同山ノ宿町大部からなった。
 町名の由来ははっきりしないが、川や海に臨む地に戸を付けることが多いという。花川戸の地は、桜の並木あるいは対岸の墨堤に咲く桜など桜と隅田川に結びついていたので、この名が付いたのではなかろうか。
 昭和四十年(一九六五)、住居表示の実施で浅草花川戸一・二丁目は、浅草の二文字を略しそのまま花川戸一・二丁目になった。
東参道・二天門通り 東参道交差点で江戸通りを渡る 東参道・二天門通り 東参道交差点で江戸通りを渡る 
東参道・二天門通り 助六夢通りを渡り、隅田公園(西岸)へ 東参道・二天門通り 助六夢通りを渡り、隅田公園(西岸)へ 
隅田公園(西岸)入口にある公園案内図 隅田公園(西岸)入口にある公園案内図 

公園に入り左折、上流の桜橋に向かう。
隅田公園(西岸)入口から遊歩道へ 隅田公園(西岸)入口から遊歩道へ 

正面に東京スカイツリーが見え、写真を撮る人が多い。
満開近い桜並木の隅田公園(西岸)を北上 満開近い桜並木の隅田公園(西岸)を北上 
満開近い桜並木の隅田公園(西岸)を北上 満開近い桜並木の隅田公園(西岸)を北上 

下の枝は満開だが、上の枝は5〜6分咲である。
満開近い桜並木の隅田公園(西岸)を北上 遊具広場 満開近い桜並木の隅田公園(西岸)を北上 遊具広場 
満開近い桜並木の隅田公園(西岸)を北上 言問橋の下を通り抜ける 満開近い桜並木の隅田公園(西岸)を北上 言問橋の下を通り抜ける 
満開近い桜並木の隅田公園(西岸)を北上 言問橋の下を通り抜ける 満開近い桜並木の隅田公園(西岸)を北上 言問橋の下を通り抜ける 

言問橋の下を通り抜けると右手に東京スカイツリーがよく見える。
 満開近い桜並木の隅田公園(西岸) 言問橋に沿って助六夢通りへ向かう 満開近い桜並木の隅田公園(西岸) 言問橋に沿って助六夢通りへ向かう 
 満開近い桜並木の隅田公園(西岸) 言問橋に沿って助六夢通りへ向かう 満開近い桜並木の隅田公園(西岸) 言問橋に沿って助六夢通りへ向かう 

右奥に東京大空襲 慰霊碑が見える。
満開近い桜並木の隅田公園(西岸) 東京大空襲 慰霊碑 満開近い桜並木の隅田公園(西岸) 東京大空襲 慰霊碑 

言問橋の西詰で助六夢通り沿いに東京大空襲 慰霊碑がひっそりとある。
満開近い桜並木の隅田公園(西岸) 東京大空襲 慰霊碑 満開近い桜並木の隅田公園(西岸) 東京大空襲 慰霊碑 

戦災により亡くなられた方々の碑

 隅田公園のこの一帯は。昭和二十年三月十日の東京大空襲等により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。
 第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。
 亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後だびに付され東京都慰霊堂(墨田区)に納骨された。
 戦後四十年、この不幸な出来事や忌まわしい記憶も、年毎に薄れ、平和な繁栄のもとに忘れ去られようとしている。
 いま、本区は、数少ない資料をたどり、区民からの貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調製するとともに、この地に碑を建立した。
満開近い桜並木の隅田公園(西岸) 東京大空襲 慰霊碑 満開近い桜並木の隅田公園(西岸) 東京大空襲 慰霊碑 
満開近い桜並木の隅田公園(西岸) 言問橋の縁石 満開近い桜並木の隅田公園(西岸) 言問橋の縁石 

ここに置かれているコンクリ−卜塊は、一九九二年言問橋の欄干(らんかん)を改修した際に、その基部の縁石を切り取ったものです。一九四五年三月十日、東京大空襲のとき、言問橋はは猛火に見舞われ、大勢の人が犠牲となりました。この縁石は、当時の痛ましい出来事の記念石として、ここに保存するものです。
満開近い桜並木の隅田公園(西岸) 言問橋の縁石 満開近い桜並木の隅田公園(西岸) 言問橋の縁石 



 
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