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石浜通り 台東リバーサイド スポーツセンター横の三叉路で右折、橋場通りへ |
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橋場通り 山谷堀公園 旧今戸橋から見た東京スカイツリー |
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橋場通り 山谷堀公園 旧今戸橋 |
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橋場通り 山谷堀公園 旧今戸橋
山谷堀がいつ頃掘られたかはっきりしないが江戸の吉原との関係からみてもおそらく江戸初期にできたものであろう。 都下水道局ポンプ場のところから隅田川へと注ぐ約七〇〇メートルにおよぶ山谷堀は、北区の音無川を源とし、飛鳥山の北側、王子権現の下を経て通じていた。 当時、この堀は吉原への通路の一つであった。山谷堀を通るので吉原通いを別名、山谷通いともいった。猪牙船などを仕立ててこのコースを使う遊興はぜいたくとされ、まさにおだいじん遊びだった。 堀の上流の方から日本堤橋、地方橋、地方新橋、紙洗橋、山谷堀橋、正法寺橋、吉野橋、聖天橋、今戸橋と九つの橋がかけられていたが、埋立に伴いすべて取り除かれており、橋台のみが昔の面影を残している。 現在は、水と緑の懇いの公園として整備されている。 |
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橋場通り 待乳山聖天 正門
待乳山聖天は、浅草寺の支院である。創建は推古天皇の9年(602年)の夏、旱魃にあえぐ人々に十一面観音が大聖尊歓喜天に化身し、人々を救ったため、「聖天さま」として祀った事による。 |
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橋場通り 待乳山聖天 参道の階段
正門は閉鎖されており、橋場通りから左折して参道の階段を上る。 |
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橋場通り 待乳山聖天 参道 |
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橋場通り 待乳山聖天
待乳山聖天は、金龍山浅草寺の子院で正しくは、待乳山本龍院という。その創建は縁起によれば、推古天皇九年(六〇一)夏、旱魃のため人々が苦しみ喘いでいたとき、十一面観音が大聖尊歓喜天に化身してこの地に姿を現し、人々を救ったため、「聖天さま」として祀ったといわれる。 ここは隅田川に臨み、かつての竹屋の渡しにほど近い小丘で、江戸時代には東都随一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌などの題材ともなっている。特に江戸初期の歌人戸田茂睡の作 哀れとは夕越えて行く人も見よ 待乳の山に残す言の葉
の歌は著名で、境内にはその歌碑(昭和三十年再建)のほか、石造出世観音立像、トーキー渡来の碑、浪曲双輪搭などが現存する。また、境内各所にほどこされた大根・巾着の意匠は、当寺のご利益を示すもので、大根は健康で一家和合、巾着は商売繁盛を表すという。一月七日大般若講大根祭には多くの信者で賑わう。 なお、震災・戦災により、本堂などの建築物は焼失、現在の本堂は昭和三十六年に再建されたものである。 |
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橋場通り 待乳山聖天 参道 山門
正月を明後日に控え、準備万端である。 |
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橋場通り 待乳山聖天 参道を飾る大根、巾着
大根・巾着の意匠は、当寺のご利益を示すもので、大根は健康で一家和合、巾着は商売繁盛を表すという。一月七日大般若講大根祭には多くの信者で賑わう。 |
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橋場通り 待乳山聖天 お供えとして売られている大根
お供えとして200円、300円の2種類の大根が売られている。 |
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橋場通り 待乳山聖天 大根が描かれた巾着型の香炉 |
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橋場通り 待乳山聖天 本堂
幕の右には巾着、左には大根が描かれている。 |
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橋場通り 待乳山聖天 本堂 巾着型の水盤 |
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橋場通り 言問橋西交差点で右折、言問通りへ |
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言問通り 枯葉状態の黄葉したイチョウ並木
大晦日の前日というのにまだ黄葉が残っているのは奇跡である。 |
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言問通り 馬道交差点で左折、馬道通りへ
「馬道」という町名は相当古くからあり、「御府内備考」によるとすでに江戸時代初期には南馬道町、北馬道町の名があった。ちょうど浅草寺境内から二天門を通り抜けた左手に南馬道町、その北隣りあたりが北馬道町である。享保十五年(一七三○)には二天門の右手に南馬道新町ができるなどして浅草寺の東側一帯に浅草寺子院街として発展したが、明治十年(一八七七)この付近が整理統合され浅草馬道町ができた。そして昭和九年(一九三四)さらに浅草馬道町は隣接する幾つかの町を合併して町域を広げるとともに、町名を浅草馬道に改めた。 町名の由来は諸説あるが、むかし浅草寺に馬場があり、僧が馬術を練るためその馬場へ行くおりこの付近を通ったところ、その通路を馬道というようになったと言われている。 |