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江戸・東京の事件、災害、刑場巡りH2209
第2部 板橋〜巣鴨〜白山221109
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板橋駅〜旧中山道〜巣鴨庚申塚
江戸、東京の事件、災害、刑場巡りを3部作で撮ることとした。第2部として板橋駅の近藤勇墓所から、本妙寺(明暦の大火供養塔、遠山金四郎景元墓所)、慈眼寺(司馬江漢墓所、芥川龍之介墓所)を経て、巣鴨とげ抜き地蔵、江戸六地蔵の真性寺の菊まつり。巣鴨駅に出る。白山通りを南下し、旧白山通りに入り、八百屋お七の墓(円乗寺)を見た後、白山駅に着く。
板橋駅前の旧中山道を右折し、埼京線踏切を横断、最初の信号で右折、滝野川桜通りへ入り、板橋駅東口前交差点の近藤勇墓所に着く。近藤勇は、慶應4年(1868年)4月25日、近くの板橋一里塚で処刑された。近藤勇と新選組隊士供養塔は、局長近藤勇と、副長の土方歳三の供養碑で、明治9年(1878年)に隊士の一人永倉新八が発起人となって建立された。墓所には他にも、供養塔、永倉新八の墓、近藤勇の像などがある。
滝野川桜通りを北上、突き当りを右折、旧中山道へ進み東進、亀の子束子(たわし)を発明した西尾商店を経て、堀割交差点で明治通りを渡り、庚申塚通り(旧中山道)へ入る。都電荒川線庚申塚駅の踏切を渡り、庚申塚交差点で左折、庚申塚を参拝した後、折戸通りへ進む。庚申信仰は、中国の道教の三尸(さんし)説による。庚申の日の夜に三尸と言う虫が体から抜け出し、点綴に罪状報告をする、と言われている。そのため、この晩は寝ずに過ごし、寿命の縮むのを防いだ。
巣鴨庚申塚〜本妙寺〜慈眼寺
巣鴨庚申塚から折戸通りを西進、西巣鴨三丁目交差点で右折して、白山通りを南下する。豊島市場前交差点で左折、突き当りに明暦大火供養塔や、遠山金四郎景元、千葉周作の墓などがある本妙寺山門に着く。本妙寺の石垣沿いに東進、染井霊園の角で左折して慈眼寺墓地と染井霊園の間の道を北上すると、江戸時代の画家司馬江漢、芥川龍之介、谷崎潤一郎の墓がある慈眼寺に至る。本妙寺、慈眼寺は別ページにまとめてある。来た道を戻り、突き当りの豊島市場前交差点で左折、白山通りへ出る。
本妙寺は、天正20年(1592年)の徳川家康の関東移封により、浜松から移され、山門脇に史跡がどこにあるか分かりやすい境内案内図がある。明暦の大火の出火元で有名で入ってすぐに関宿藩主久世大和守歴代の墓があり、本堂横に
明暦の大火(振袖火事)の供養塔がある。
明暦の大火は江戸の半分以上を焼いた大火で、本妙寺で曰く因縁のある振袖を焼いたことが出火の一因(異説あり)と言われる。犠牲者10万人以上と言われ、菩提を弔うため両国回向院が建立された。史跡墓所には、囲碁家元の本因坊歴代の墓、遠山金四郎景元の墓、千葉周作の墓などがある。
慈眼寺の山門左に墓所入口がある。墓所には司馬江漢、斉藤鶴磯、赤穂義士討ち入りの際、斬死した吉良家の小林平八郎、芥川龍之介、谷崎潤一郎、比翼塚があることになっているが、小林平八郎の墓と比翼塚は見当たらなかった。芥川龍之介の墓の案内柱は墓所のはずれに近いところにあり、左折して突き当りに芥川家の墓、左に龍之介単独の墓がある。谷崎潤一郎の墓は、芥川龍之介の墓の案内柱の裏にあるが見落としやすい。司馬江漢の墓は、墓所のほとんど外れの一画の入口にあたり、その後ろに斉藤鶴磯の墓がある。
巣鴨とげ抜き地蔵〜巣鴨駅〜白山駅
白山通りから巣鴨とげ抜き地蔵(高岩寺)の塀沿いに進み、本堂横から入る。平日にもかかわらず長蛇の列の洗い観音を見つつ、山門から出て巣鴨地蔵通りを南下する。地蔵通りを出てすぐ右手の真性寺で菊まつりが行われており、見事な菊に見物客が多い。真性寺は、江戸六地蔵第4番として、正徳4年(1714)ごろ建立したものである。白山通りを歩き、巣鴨駅に至る。
白山通りを南下、千石一丁目交差点で不忍通りを渡り、千石駅前交差点で左に進んで旧白山通りに入り、東洋大学を経て、白山上交差点で斜め右に進む。奥に白山神社の鳥居を見つつ坂を下り、白山下交差点のマンション横の道を進むと八百屋お七の墓がある円乗寺に着く。
お七の生家は、駒込片町(本郷追分など)で、天和2年(1682)の天和の大火で、菩提寺の円乗寺に避難し、その後放火の罪で天和3年に火あぶりの刑に処せられた。三基の墓石のうち中央は寺の住職が供養のため建て、右側のは寛政年間(1789〜1801)岩井半四郎がお七を演じ好評だったので建立、左側は近所の有志の人たちが、270回忌の供養で建立したものである。旧白山通りに戻り、都営三田線の白山駅に着く。
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