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江戸・東京の事件、災害、刑場巡りH2209
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第1部 小塚原〜両国〜小伝馬町H221102
第1部として江戸、東京の事件、災害、刑場のメインと言える刑場(小塚原、伝馬町牢屋敷)、災害(関東大震災、東京大空襲)、事件(投込寺(浄閑寺)、本所吉良屋敷)、回向院(両国、小塚原)をテーマとし、三ノ輪駅点から南千住に出て吉野通りを南下、言問通りに入り東京スカイツリーを見た。その後、三ツ目通り、蔵前橋通りを経て、清澄通りで旧陸軍被服廠(横網公園)、本所吉良屋敷、回向院と歩き、江戸通りから十思公園(伝馬町牢屋敷跡)に着いた。
三ノ輪駅から大関横丁で右折、日光街道へ入って次の小路を右折すると、すぐ左手に投込寺(浄閑寺)の白塀が見える。安政2年の大地震の際、たくさんの新吉原の遊女が、投げ込み同然に葬られたことから、「投込寺」と呼ばれる。花又花酔の川柳に、「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と詠まれ、新吉原総霊塔が建立された。
遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて、作家永井荷風はしばしば当寺を訪れた縁で文学碑が建てられた。ただ、本堂工事のアルミパイプが邪魔で写真が撮りにくい。正面に東京スカイツリーを見つつ、浄閑寺の白塀沿いに東進、南千住二丁目交差点で左折、吉野通りへ進み、南千住駅前歩道橋に至る。
南千住駅前歩道橋を渡り、左手前の階段を下りると小塚原処刑場跡(延命寺)である。小塚原回向院は両国の回向院が手狭になったために建てられたもので、常磐線建設により南北に分けられ、刑場跡は線路脇に首切地蔵がある延命寺となっている。延命寺は、境内、墓地改修工事で雑然とし、首切り地蔵がかすかに見える。首切地蔵は、刑死者の菩提をとむらうため寛保元年に造立された。
回向院入口の壁には、明和8年の蘭学者杉田玄白、中川淳庵、前野良沢らが、刑死者の解剖に立ち合ったことによる観臓記念碑がある。墓地は整備されて右に史跡参拝所が設けられ、入口から2.26事件の磯部浅一元大尉夫妻、相馬大作供養碑、最後の処刑者の高橋お伝、片岡直三郎(直侍)、鼠小僧次郎吉の墓がある。奥には安政の大獄により刑死した橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎ら多くの志士たちが葬られている。
現在の高さは497mの東京スカイツリーを見つつ、吉野通りを南下、泪橋交差点で明治通りを渡る。北めぐりんが横断する東浅草二丁目交差点の次の無名の交差点で、靴ひもの株式会社マモル脇で右折すると正面に江戸六地蔵の東禅寺がある。次の東浅草交番前交差点は、浅草地区を周回する無料のニンニンパンダバスが横断し、山谷堀公園の吉野橋を経て、言問橋西交差点で左折、言問橋へ向かう。
現在の高さは497mの東京スカイツリーを正面に見つつ言問橋を渡り、言問通りを牛嶋神社沿いに東進する。言問橋東交差点、向島一丁目交差点、東武伊勢崎線 業平橋駅と過ぎて、東京スカイツリー撮影スポットとして名高い北十間川に架かる東武橋に至る。業平一丁目交差点で左折、浅草通りへ出て、業平橋、大横川親水公園と経て、本所吾妻橋交差点で左折、三ツ目通りへ進む。
三ツ目通りを南下、本所三丁目交差点で春日通りを渡り、石原三丁目交差点で右折、蔵前橋通りへ進み、石原一丁目交差点で左折、清澄通りへ入る。旧陸軍被服廠(横網町公園)は、関東大震災で約4万人がこの地で焼け死んだため、震災慰霊堂が作られ、合わせてその後の復興を記念する復興記念館も建てられた。震災時の猛火と熱風で溶解した丸善ビルの鉄柱などが展示されている。清澄通りを南下し、日大一中、一高、江戸東京博物館と過ぎて、緑一丁目交差点で右折、京葉道路へ進む。
京葉道路を西進、関東大震災殉職者慰霊碑がある本所警察署の先の両国三丁目交差点で左折、平成22年元禄市のポスターや両国小学校前の芥川龍之介文学碑(杜子春)を見て、両国玩具株式会社脇で右折、すぐ右に旧吉良邸の本所松阪町公園の白壁が見える。昭和9年に地元町会の有志が、世に伝えようと、旧邸跡の一画を購入し史蹟公園として、東京市に寄付した。
突き当りを右折し、京葉道路へ出て旧国技館の両国シティコアの隣に両国回向院がある。天保4年からは、回向院境内の掛け小屋で相撲の定場所として、年に二度の興行が開かれたことに因み、力塚など相撲関係石碑群があり、左奥の史跡記念墓地には鼠小僧供養墓がある。日露戦争の満州軍総司令官大山巌元帥書の表忠碑がある両国橋東詰めに至る。
京葉道路を西進、隅田川に架かる両国橋を、浅草橋交差点で清杉通りを渡り、浅草橋交差点で左折、江戸通りへ進む。馬喰横山の繊維問屋街、馬喰町一丁目交差点、馬喰町交差点と過ぎて小伝馬町交差点で右折、人形町通りへ入る。交差点のすぐ先に伝馬町牢屋敷跡の十思公園があり、その前に処刑者慰霊の大安楽寺がある。十思公園には、刑死した松陰先生終焉之地碑、吉田松陰の辞世の歌碑や、石町の時の鐘がある。
第2部 板橋〜巣鴨〜白山
第2部として板橋駅の近藤勇墓所、本妙寺(明暦の大火供養塔、遠山金四郎景元墓所)、慈眼寺(司馬江漢墓所、芥川龍之介墓所)、八百屋お七の墓(円乗寺)をテーマとし、近藤勇墓所のある板橋駅から、旧中山道、白山通りを下り、本妙寺、慈眼寺、巣鴨とげ抜き地蔵、江戸六地蔵の真性寺の菊まつりを見て、巣鴨駅に出る。さらに白山通りを南下し、旧白山通りに入り、八百屋お七の墓(円乗寺)を過ぎて白山駅に着く。
板橋駅前の旧中山道を右折し、埼京線踏切を横断、最初の信号で右折、滝野川桜通りへ入り、板橋駅東口前交差点の近藤勇墓所に着く。近藤勇は、慶應4年(1868年)4月25日、近くの板橋一里塚で処刑された。近藤勇と新選組隊士供養塔は、局長近藤勇と、副長の土方歳三の供養碑で、明治9年(1878年)に隊士の一人永倉新八が発起人となって建立された。墓所には他にも、供養塔、永倉新八の墓、近藤勇の像などがある。
滝野川桜通りを北上、突き当りを右折、旧中山道へ進み東進、亀の子束子(たわし)を発明した西尾商店を経て、堀割交差点で明治通りを渡り、庚申塚通り(旧中山道)へ入る。都電荒川線庚申塚駅の踏切を渡り、庚申塚交差点で左折、庚申塚を参拝した後、折戸通りへ進む。庚申信仰は、中国の道教の三尸(さんし)説による。庚申の日の夜に三尸と言う虫が体から抜け出し、点綴に罪状報告をする、と言われている。そのため、この晩は寝ずに過ごし、寿命の縮むのを防いだ。
巣鴨庚申塚から折戸通りを西進、西巣鴨三丁目交差点で右折して、白山通りを南下する。豊島市場前交差点で左折、突き当りに明暦大火供養塔や、遠山金四郎景元、千葉周作の墓などがある本妙寺山門に着く。本妙寺の石垣沿いに東進、染井霊園の角で左折して慈眼寺墓地と染井霊園の間の道を北上すると、江戸時代の画家司馬江漢、芥川龍之介、谷崎潤一郎の墓がある慈眼寺に至る。本妙寺、慈眼寺は別ページにまとめてある。来た道を戻り、突き当りの豊島市場前交差点で左折、白山通りへ出る。
本妙寺は、天正20年(1592年)の徳川家康の関東移封により、浜松から移され、山門脇に史跡がどこにあるか分かりやすい境内案内図がある。明暦の大火の出火元で有名で入ってすぐに関宿藩主久世大和守歴代の墓があり、本堂横に
明暦の大火(振袖火事)の供養塔がある。
明暦の大火は江戸の半分以上を焼いた大火で、本妙寺で曰く因縁のある振袖を焼いたことが出火の一因(異説あり)と言われる。犠牲者10万人以上と言われ、菩提を弔うため両国回向院が建立された。史跡墓所には、囲碁家元の本因坊歴代の墓、遠山金四郎景元の墓、千葉周作の墓などがある。
慈眼寺の山門左に墓所入口がある。墓所には司馬江漢、斉藤鶴磯、赤穂義士討ち入りの際、斬死した吉良家の小林平八郎、芥川龍之介、谷崎潤一郎、比翼塚があることになっているが、小林平八郎の墓と比翼塚は見当たらなかった。芥川龍之介の墓の案内柱は墓所のはずれに近いところにあり、左折して突き当りに芥川家の墓、左に龍之介単独の墓がある。谷崎潤一郎の墓は、芥川龍之介の墓の案内柱の裏にあるが見落としやすい。司馬江漢の墓は、墓所のほとんど外れの一画の入口にあたり、その後ろに斉藤鶴磯の墓がある。
白山通りから巣鴨とげ抜き地蔵(高岩寺)の塀沿いに進み、本堂横から入る。平日にもかかわらず長蛇の列の洗い観音を見つつ、山門から出て巣鴨地蔵通りを南下する。地蔵通りを出てすぐ右手の真性寺で菊まつりが行われており、見事な菊に見物客が多い。真性寺は、江戸六地蔵第4番として、正徳4年(1714)ごろ建立したものである。白山通りを歩き、巣鴨駅に至る。
白山通りを南下、千石一丁目交差点で不忍通りを渡り、千石駅前交差点で左に進んで旧白山通りに入り、東洋大学を経て、白山上交差点で斜め右に進む。奥に白山神社の鳥居を見つつ坂を下り、白山下交差点のマンション横の道を進むと八百屋お七の墓がある円乗寺に着く。
お七の生家は、駒込片町(本郷追分など)で、天和2年(1682)の天和の大火で、菩提寺の円乗寺に避難し、その後放火の罪で天和3年に火あぶりの刑に処せられた。三基の墓石のうち中央は寺の住職が供養のため建て、右側のは寛政年間(1789〜1801)岩井半四郎がお七を演じ好評だったので建立、左側は近所の有志の人たちが、270回忌の供養で建立したものである。旧白山通りに戻り、都営三田線の白山駅に着く。
第3部 日比谷〜永代橋〜洲崎十万坪H220929
第3部として永代橋崩落、大高潮災害の洲崎十万坪をテーマとし、日比谷交差点から大手町に出て、永代通りを歩いた。
日比谷交差点から日比谷通りを北上、第一生命、帝国劇場、東京會舘と過ぎて、馬場先門交差点を渡ると重要文化財の明治生命館がある。さらに日比谷通りを馬場先濠沿いに北上、和田倉門交差点を渡ると東京海上日動ビル本館がある。和田倉門交差点から見た行幸通りは、工事も終え、きれいに整備されて歩きやすいプロムナードになっている。和田倉橋前の東京銀行協会ビルの先の大手町交差点で右折、永代通りへ入る。
永代通りを東進、大手町駅前交差点には改装前の旧野村ビルの名残の時計台が付く大手町野村ビルがあり、丸の内一丁目交差点でJRガード下をくぐり抜けてサビアタワー前を歩き、呉服橋交差点で外堀通りを渡る。東北の角にCOREDO日本橋がある日本橋交差点で中央通り、江戸橋一丁目交差点で昭和通りを渡る。茅場町交差点界隈には兜町証券会社街があり、茅場町一丁目交差点で新大橋通りを渡る。
永代通りを東進、亀島川に架かる霊岸橋を渡り、新川一丁目交差点を過ぎると河村瑞賢屋敷跡、永代橋西交差点には船員教育発祥之地碑がある。隅田川に架かる永代橋から月島リバーシティ21(下流側)、東京スカイツリー(上流側)が見える。
永代橋は、文化4年(1807年)8月に、深川八幡の祭礼の人出で橋が崩落、440名が溺死した。深川にあった海福寺に供養塔が作られたが、明治43年(1910年)に目黒に移転、供養塔も移った。永代二丁目交差点を過ぎ、門前仲町交差点で清澄通りを渡る。
永代通りを歩き、深川不動尊、富岡八幡宮と過ぎて、平久川に架かる汐見橋を渡り、首都高9号深川線の高架下を進んですぐの木場五丁目交差点で右折、三ツ目通りへ入る。平木橋を渡ってすぐ左折、正面に赤い鳥居の洲崎神社が見え、境内に津波警告の碑、波除碑がある。
寛政3年(1791)9月3日に大雨が降り始め、翌日、深川洲崎一帯に襲来した高潮で多数の死者、行方不明者が出た。幕府はこの災害を重視して洲崎弁天社から西の5,467余坪を買上げて空地とし、さらに同6年(1794)12月、空地東西の北端に波除碑2基を建て、見通しの標とした。波除碑は当時は高さ6尺、角1尺であったが、材質が砂岩で脆く、関東大震災と戦災で破損が著しい。洲崎川緑道公園を歩き、東陽町駅前交差点で四ツ目通りを渡り、東京メトロ東西線の東陽町駅に着く。
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