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永代通り 亀島川に架かる霊岸橋  |
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永代通り 河村瑞賢屋敷跡 
江戸時代、この地域には幕府の御用商人として活躍していた河村瑞賢(一六一八〜一六九九)の屋敷がありました。
瑞賢(瑞軒・随見とも書く)は、伊勢国の農家に生まれ、江戸に出て材木商人となりました。明暦三年(一六五七)の江戸大火の際には、木曽の材木を買い占めて財をなし、その後も幕府や諸大名の土木建築を請負い莫大な資産を築きました。また、その財力を基に海運や治水など多くの事業を行いました。
瑞賢の業績の中でもとくに重要なのは、奥州や出羽の幕領米を江戸へ廻漕する廻米航路を開拓して輸送経費・期間の削減に成功したことや、淀川をはじめとする諸川を修治して畿内の治水に尽力したことがあげられます。晩年にはその功績により旗本に列せられました。
斎藤月岑の『武江年表』によると、瑞賢は貞享年間(一六八四〜一六八八)頃に南新堀一丁目(当該地域)に移り住み、屋敷は瓦葺の土蔵造りで、塩町(現在の新川一丁目二十三番地域)に入る南角から霊岸島半丁一円を占めていたと記されています。表門は今の永代通りに、裏門はかつて新川一丁目七番・九番付近を流れていた新川に面し、日本橋川の河岸には土蔵四棟があり、広壮な屋敷を構えていたようです。
『御府内沿革図書』延宝年間(一六七三〜一六八一)の霊岸島地図を見ると、端賢が開削したとされる堀割に新川が流れ、その事業の一端を知ることができます。 |
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永代通り 新川一丁目交差点 界隈案内図 
河村瑞賢屋敷跡の案内板は、交差点を過ぎてすぐの所にある。 |
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永代通り 永代橋西交差点  |
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永代通り 永代橋西交差点 船員教育発祥之地 
永代橋の西詰め右手にある。
内務卿大久保利通が三菱会社の岩崎彌太郎に命じ、明治8年にこの地に商船学校を開設させた。商船学校は後に越中島の東京商船大学(現在の東京海洋大学)となった。 |
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永代通り 隅田川に架かる永代橋 
永代橋は、元禄年間に「深川の大渡し」に代わって架けられ、佐賀町付近(現在の佐賀一丁目付近)が昔、永代島と呼ぱれていたため、永代橋と名付けられました。橋の両側には広小路を設けて橋番屋が設けられ、高札を立て、武士、医師、出家神主以外の通行人から橋銭を取る有料橋でした。上流の清洲橋の女性的な優美さに相対し、男性的な重量感を持っています。
隅田川と一体となって地域のランドマークとしての役割を果たすとともに、建設された時代の特色を表していることから、1999年に東京都選定歴史的構造物に選定されました。 |
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永代橋から見た月島リバーシティ21(下流側)  |
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永代通り 隅田川に架かる永代橋 
元禄11年(1698年)に上野寛永寺本堂の余材を使って作られた。当初は今より100m上流の深川の渡しに作られた。
文化4年(1807年)8月に、深川八幡の祭礼の人出で橋が崩落、440名が溺死した。深川にあった海福寺に供養塔が作られたが、明治43年(1910年)に目黒に移転、供養塔も移った。 |
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永代橋から見た月島リバーシティ21(下流側)  |
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永代橋から見た東京スカイツリー(上流側) 
上流側に見えるが、完成した時にはもっとはっきりと見えるだろう。 |
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永代橋 重要文化財説明板 
永代橋の橋梁としての構造学問上の説明である。 |
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永代通り 永代二丁目交差点 
永代通りはそのまま直進し、左折すると葛西橋通りである。 |
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永代通り レトロな飲み屋 
日本再生酒場という飲み屋で、門前仲町交差点手前にあり、若かりし頃のクレイジーキャッツの映画風看板が掲げられている。 |
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永代通り 門前仲町交差点で清澄通りを渡る 
門前仲町交差点で東西線と大江戸線は交差し、左折すると清澄庭園を経て両国へ、右折すると月島に向かう。 |