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シェール川河畔 シュノンソー城 シェール川に架かる橋を渡ってシュノンソー城に入る 
前庭とマルク家の塔
シェール川をまたぐシユノンソー城を建設するため、トマ・ボイエとその妻カトリーヌ・ブリソネはマルク家の城塞と水車を16世紀に取り壊し、塔の部分のみ残しました。そしてマルク家の塔はルネッサンス様式に作り変えられました。前庭は、中世の古い城の図面を再現し、堀に囲まれています。
塔の脇には、マルク家の紋章であるキマイラと鷲のモチーフが刻まれた井戸が残っています。
要塞となっていた昔の水車の橋脚の上に建てられた城の方へ進むと、壮大な城門が見えます。フランソワ一世の時代に彫刻・彩色されたこの木製の門には、この城を建てたトマ・ボイエとカトリーヌ・ブリソネの家紋がそれぞれ左側と右側に見え、その上にはフランソワ一世の紋章のサラマンダーとラテン語の碑文が彫られています:“FRANCISCUS DEI GRATIA FRANCORUM REX − CLAUDIA FRANCORUM REGINA”(神の恵みを受けたフランス王フランソワとフランス王妃クロード) |
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シェール川河畔 シュノンソー城 シェール川に架かる橋を渡ってシュノンソー城に入る  |
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シェール川河畔 シュノンソー城 シェール川に架かる橋を渡ってシュノンソー城に入る  |
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シェール川河畔 シュノンソー城 シェール川に架かる橋を渡ってシュノンソー城に入る 
橋の左にはディアーヌの庭園が見える。
ディアーヌの庭園
ディアーヌ・ド・ポワティエによる造園の時代から、花壇の構造は変更されていませんが、現在の図案はアシール・デュシェーヌ(1866年−1947年)によるものです。この庭園は、かつてカトリーヌ・ド・メディシスの近習の邸であった事務局が発注しました。
直角に交差する小路と斜めに交差する小路が、ワタスギギクの渦巻き装飾のある8つの三角形の芝生を縁取っています(12,000m2)。その中央には、造園された当時の噴水が再現されました。
シェール川の増水被害を受けないよう作られた土手の上に、飾り鉢が配してあり、見学者は低木、イチイ、柾、柘植、ローリエが植え込みに躍動感を与えている風景を眺めることができます。夏には、ここで百本以上のハイビスカ
スが花を咲かせます。それらの低木や花壇が、この庭園の厳格なほど幾何学的な構成を際立たせています。
秋にはパンジーとヒナギクが交互に現れ、冬中花を咲かせます。春にはペチュニア、タバコ、小型ダリア、バーベナ、ベゴニアが植えられ、そのまま次の秋を待ちます。庭を囲みテラスを支える壁全面を覆うように、アイスパーク種の蔓バラが櫨えられています。 |
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シェール川河畔 シュノンソー城 礼拝堂 
礼拝堂
護衛兵の間から、聖母マリアの像が上に据えられた扉を通って礼拝堂に入ります。
オーク材のこの扉には、キリストと聖トマが彫られており、聖ヨハネによる福音書からの引用が記されています。”INFER DIGITU TUUM HUC”、:”DNS MEUS ET DEUS:ME”(”ここに汝の指を置け”“あなたは私の主、私の神”)ステンドグラスはマックス・アングランの1954年の作品であり、もとのステンドグラスは1944年の爆撃によって破壊されました。
右手のロッジアには、カラーレ大理石に刻まれたミノ・ダ・フィエゾーレ作の聖母マリアと幼子キリストの彫刻。
礼拝堂の身廊を見下ろすように置かれた高壇は、王妃がミサに参列するための席で、1521年の日付が記されています。
祭壇の右手の石細工の祭器卓に、ボイエ家の金言が刻まれています。
壁には今も、女王メアリー・スチュワートのスコツトランド衛兵隊が刻んだ英語の文が残っています。入口右側には、1543年の「人の怒りは神め裁きを成さず」と、1546年の「悪に征服されるべからず」の言葉が見られます。
壁にかかっている宗教画:
−イル・サッソフェラート「青いヴェールの聖母」
−アロンソ・カーノ「フェルディナンとイサベルに説教するキリスト」
ージュヴネ「聖母被昇天」
−セパスチアーノ・デル・ピオンボ:キリストの埋葬 −ムリリヨ「パドヴアの聖アントニウス」
−15世紀のフランス流派の絵画:受胎告知
フランス革命の際、当時の城主であったデュパン夫人の知恵により、この礼拝堂は薪の貯蔵庫として使われ、宗教性を隠したため、破壊を逃れました。 |
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シェール川河畔 シュノンソー城 礼拝堂 
壁には今も、女王メアリー・スチュワートのスコツトランド衛兵隊が刻んだ英語の文が残っています。
入口右側には、1543年の「人の怒りは神め裁きを成さず」と、1546年の「悪に征服されるべからず」の言葉が見られます。 |
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シェール川河畔 シュノンソー城 礼拝堂から見たシェール川  |
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シェール川河畔 シュノンソー城 ギャラリー 
ギャラリー
ディアーヌ・ド・ポワティエの部屋から、細い通路を通ってギャラリー(回廊)に出ます。
1576年にカトリーヌー・ド・メディシスは、フィリベ一ル・ド・ロルムの設計に基づいてジョン・ビュランの施工により、ディアーヌド・ポワティエの橋の上にギャラリーを建設させました。
全長60m幅6mで、18の窓があり、床には石灰岩とスレートを敷き詰め、天井梁が見えるこのギャラリーは、壮麗な舞踏会場でした。
1577年に完成した際、カトリーヌ・ド・メディシスは息子である、後のアンリ三世への敬意を込めて宴を催しました。
ギャラリーの両端に二つの美しいルネッサンス様式の暖炉が据えられ、シェール川左岸ヘ続く南側の扉を囲む暖炉は、装飾であり暖炉の機能を果たしておりません。19世紀初期に、プチ・オーギュスタン美術館(Musee des Petits Augustins)に所蔵されていた、著名人を表すメダイヨンがこのギャラリーに飾られました。
第一次世界大戦中は、当時の城の所有者であったガストン・ムニエ氏が自費で城を病院に改装し、部屋は全て病院の各業務に割り当てられていました。
第二次世界大戦時、シェール川はドイツの占領地区の境を成していました。城の入口(右岸)は占領地区側に位置していましたが、ギャラリーの南側の扉は左岸の非占領地区に通じており、フランスのレジスタンスは大勢の人々をここから逃がすことが出来ました。戦争中、ドイツ軍は何時でもシュノンソー城を破壊できるよう構えていたのです。 |
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シェール川河畔 シュノンソー城 ギャラリーから見たシェール川  |
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シェール川河畔 シュノンソー城 厨房 
厨房
シュノンソーの厨房は、シェール川の川床に建てられた端の二つの橋脚が形成する大きな土台の上に位置します。
配膳室は、ニつの尖塔アーチで構成されている、天井が低い部屋です。16世紀の暖炉は、城内で最も大き<、その横にあるのはパン焼釜です。
配膳室は次の場所に通じています:
一食堂は城の従業員、そして一時期はルイーズ・ドロレーヌ付きの侍従が利用しました。
一肉の貯蔵室には現在も野禽の肉を吊るす鉤や、肉を切り分けるまな板が置かれています。
一食料戸棚には食料が保存されていました。
一本来の厨房に至る橋 橋脚から橋脚へと移動する際に、食料補給のための船付き場を見ることができます(言い伝えによると、この場所は「ディアーヌの浴場」あるいは「女王の浴場」と呼ばれていました)。第一次世界大戦中に城が病院に改装された際、このルネッサンス様式の厨房に近代的な設備が取り付けられました。 |
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シェール川河畔 シュノンソー城 厨房  |
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シェール川河畔 シュノンソー城 厨房  |
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シェール川河畔 シュノンソー城 厨房  |
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シェール川河畔 シュノンソー城 厨房から見たシェール川  |
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シェール川河畔 シュノンソー城 厨房  |
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シェール川河畔 シュノンソー城 厨房  |
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シェール川河畔 シュノンソー城 厨房から見たシェール川  |
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シェール川河畔 シュノンソー城 ルイ14世のサロン 
小物入れである。 |
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シェール川河畔 シュノンソー城 ルイ14世のサロン 
ルイ14世は、1650年7月14日のシュノンソー訪問を記念し、後にリゴーによる肖像画、オービュッソン織りのタペストリーに覆われた家具、そして高名な家具師ブールの小テーブルを、叔父のヴァンドーム公に贈った。肖像画の見事な額縁はルポートル作であり、大きな4つの木片のみで組まれている。
ルネッサンス様式の暖炉の上に見られる、サラマンダーと白鼬の紋章はフランソワ1世と王妃クロード・ド・フランスの滞在を表している。 |
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シェール川河畔 シュノンソー城 マルク家の塔、前庭  |
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シェール川河畔 シュノンソー城 マルク家の塔、前庭  |
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シェール川河畔 シュノンソー城 ディアーヌの庭園  |
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シェール川河畔 シュノンソー城 セザール・ド・ヴァンドームの居室 
ここは王アンリ4世とガブリエル・デストレの息子、ルイ14世の叔父、そして1624年にシュノンソー城の城主となったヴァンドーム公セザールの思い出が残されている部屋です。 部屋には、梁の見える美しい天井に蛇腹を支える大砲が飾られている、ルネッサンス期の暖炉は、19世紀に金色に彩色され、トマ・ボイエの紋章が描かれている等々が展示されている。 ブリュッセルのタペストリーの特徴である華麗な縁飾りは、豊穣の角から溢れ出る果物や花をモチーフとしている。
この部屋の天蓋ベッドと家具はルネッサンス期のものです。 |
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シェール川河畔 シュノンソー城 マルク家の塔、前庭  |
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シェール川河畔 シュノンソー城 マルク家の塔、前庭  |