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言問通り チェリスト本郷菊坂
菊坂下交差点から坂を上ると見える豪華マンションである。 |
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言問通り 右折して新坂を上る
新坂は、チェリスト本郷菊坂横にある。 |
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新坂を上る
区内にある新坂と呼ばれる六つの坂のーつ。『御府内備考』に「映世神社々領を南西に通ずる一路あり、其窮る所、坂あり、谷に下る。新坂といふ」とある。名前は新坂だが、江戸時代にひらかれた古い坂である。
このあたりは、もと森川町と呼ばれ、金田一京助の世話で、石川啄木がー時移り住んだ蓋平舘別荘(現太栄館)をはじめ、高等下宿が多く、二葉亭四迷、尾崎紅葉、徳田秋声など、文人が多く住んだ。この坂は、文人の逍遥の道でもあったと思われる。 |
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新坂を上る |
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新坂上 太栄館(蓋平館別荘跡) |
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新坂上 太栄館(蓋平館別荘跡)
「東海の小島の磯の白砂に 我泣きぬれて蟹とたわむる」の碑で、左下に蟹がいる。 |
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石川啄木ゆかりの蓋平館別荘跡
石川啄木(本名 一:はじめ)(一八八六〜一九一二)は、明治四十一年(一九〇八)五月、北海道の放浪から創作生活に入るため上京し、赤心館(オルガノエ場内・現本郷五−五ー六)下宿した。小説五篇を執筆したが、売込みに失敗、収入の道なく、短歌を作ってその苦しみをまぎらした。
前の歌碑の「東海の………」の歌は、この時の歌である。
赤心館の下宿代が滞り、金田一京助に救われて、同年九月六日、この地にあった蓋平館別荘に移った。三階の三畳半の室に入ったが、「富士が見える、富士が見える。」と喜んだとぃう。
ここでは、小説『鳥影』を書き、東京毎日新聞社に連載された。また、『スバル』が創刊され、啄木は名義人となった。北原白秋、木下杢太郎や吉井勇などが編集のため訪れた。
東京朝日新聞社の校正係として定職を得、旧本郷弓町(現本郷二−三八−九)の喜の床に移った。ここでの生活は九か月間であった。
蓋平館が、昭和十年頃太栄館と名称が変わったが、その建物は昭和二十九年の失火で焼けた。
父のごと 秋はいかめし
母のごと 秋はなつかし
家持たぬ児に |
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新坂を下り右折、言問通りへ |
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言問通り 慈愛病院前交差点 |
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言問通り 西片二丁目交差点 |
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言問通り 本郷弥生交差点で本郷通りを渡る |
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言問通り 本郷弥生交差点で本郷通りを渡る |
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言問通り 本郷弥生交差点で本郷通りを渡る |
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言問通り 東大農学部沿いに東進 |
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言問通り 東大農学部沿いに東進
本郷弥生交差点の次の交差点で右折、工学部沿いに歩くと弥生美術館・竹久夢二美術館がある。 |
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言問通り 「弥生式土器」の発見地
「弥生式土器」の発見
明治十七年、東京大学の坪井正五郎、白井光太郎と有坂?蔵の三人は、根津の谷に面した貝塚から赤焼の壺を発見した。これが後に、縄文式土器と異なるものと認められ、町名をとり「弥生式土器」Lと命名された。
発見地はどこか
「弥生式土器」の発見地は、その後都市化が進むなかではっきりしなくなり謎とされてきた。推定地としては、次
の三か所が指摘されている。(左の図参照)
@ 東京大学農学部の東外側(サトウハチロー旧居跡付近)
A 農学部とエ学部の境(現在地付近)
B 根津小学校の校庭裏の崖上
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言問通り 弥生坂(鉄砲坂)
かつて、このあたりー帯は「向ヶ岡弥生町」といわれていた。元和年間(1615〜21)の頃から、御三家水戸藩の屋敷(現東大農学部、地震研究所)であった。隣接して、小笠原信濃守の屋敷があり、南隣は加賀藩前田家の屋敷(現東大)であった。
明治2年(1869)これらの地は明治政府に収公されて大学用地となった。明治5年(1872)には、この周辺に町家が開かれ、向ヶ岡弥生町と名づけられた。その頃、新しい坂道がつけられ、町の名をとって弥生坂と呼ばれた。明治の新坂で、また坂下に幕府鉄砲組の射撃場があったので、鉄砲坂ともいわれた。
弥生とは、水戸徳川斉昭侯が、文政11年(1828)3月(弥生)に、このあたりの景色を詠んだ歌碑を、屋敷内に建てたからという。
名にしおふ春に向ふが岡なれば 世にたぐひなき花の影かな |
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言問通り 弥生坂を下る
下った所が根津一丁目交差点である。 |
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言問通り 根津一丁目交差点で左折、不忍通りへ |