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菊坂下交差点〜本郷弥生交差点〜根津一丁目交差点

【関連サイト】   樋口一葉が愛した本郷・真砂町(H16−11−20)


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言問通り チェリスト本郷菊坂 言問通り チェリスト本郷菊坂 

菊坂下交差点から坂を上ると見える豪華マンションである。
言問通り 右折して新坂を上る 言問通り 右折して新坂を上る 

新坂は、チェリスト本郷菊坂横にある。
新坂を上る 新坂を上る 

 区内にある新坂と呼ばれる六つの坂のーつ。『御府内備考』に「映世神社々領を南西に通ずる一路あり、其窮る所、坂あり、谷に下る。新坂といふ」とある。名前は新坂だが、江戸時代にひらかれた古い坂である。
 このあたりは、もと森川町と呼ばれ、金田一京助の世話で、石川啄木がー時移り住んだ蓋平舘別荘(現太栄館)をはじめ、高等下宿が多く、二葉亭四迷、尾崎紅葉、徳田秋声など、文人が多く住んだ。この坂は、文人の逍遥の道でもあったと思われる。
新坂を上る 新坂を上る 
新坂上 太栄館(蓋平館別荘跡) 新坂上 太栄館(蓋平館別荘跡) 
新坂上 太栄館(蓋平館別荘跡) 新坂上 太栄館(蓋平館別荘跡) 

「東海の小島の磯の白砂に 我泣きぬれて蟹とたわむる」の碑で、左下に蟹がいる。
石川啄木ゆかりの蓋平館別荘跡 石川啄木ゆかりの蓋平館別荘跡 

 石川啄木(本名 一:はじめ)(一八八六〜一九一二)は、明治四十一年(一九〇八)五月、北海道の放浪から創作生活に入るため上京し、赤心館(オルガノエ場内・現本郷五−五ー六)下宿した。小説五篇を執筆したが、売込みに失敗、収入の道なく、短歌を作ってその苦しみをまぎらした。
前の歌碑の「東海の………」の歌は、この時の歌である。
 赤心館の下宿代が滞り、金田一京助に救われて、同年九月六日、この地にあった蓋平館別荘に移った。三階の三畳半の室に入ったが、「富士が見える、富士が見える。」と喜んだとぃう。
 ここでは、小説『鳥影』を書き、東京毎日新聞社に連載された。また、『スバル』が創刊され、啄木は名義人となった。北原白秋、木下杢太郎や吉井勇などが編集のため訪れた。
 東京朝日新聞社の校正係として定職を得、旧本郷弓町(現本郷二−三八−九)の喜の床に移った。ここでの生活は九か月間であった。
 蓋平館が、昭和十年頃太栄館と名称が変わったが、その建物は昭和二十九年の失火で焼けた。
 父のごと 秋はいかめし
 母のごと 秋はなつかし
 家持たぬ児に
新坂を下り右折、言問通りへ 新坂を下り右折、言問通りへ 
言問通り 慈愛病院前交差点 言問通り 慈愛病院前交差点 
言問通り 西片二丁目交差点 言問通り 西片二丁目交差点 
言問通り 本郷弥生交差点で本郷通りを渡る 言問通り 本郷弥生交差点で本郷通りを渡る 
言問通り 本郷弥生交差点で本郷通りを渡る 言問通り 本郷弥生交差点で本郷通りを渡る 
言問通り 本郷弥生交差点で本郷通りを渡る 言問通り 本郷弥生交差点で本郷通りを渡る 
言問通り 東大農学部沿いに東進 言問通り 東大農学部沿いに東進 
言問通り 東大農学部沿いに東進 言問通り 東大農学部沿いに東進 

本郷弥生交差点の次の交差点で右折、工学部沿いに歩くと弥生美術館・竹久夢二美術館がある。
言問通り 「弥生式土器」の発見地 言問通り 「弥生式土器」の発見地 

「弥生式土器」の発見
 明治十七年、東京大学の坪井正五郎、白井光太郎と有坂?蔵の三人は、根津の谷に面した貝塚から赤焼の壺を発見した。これが後に、縄文式土器と異なるものと認められ、町名をとり「弥生式土器」Lと命名された。
発見地はどこか 
「弥生式土器」の発見地は、その後都市化が進むなかではっきりしなくなり謎とされてきた。推定地としては、次
の三か所が指摘されている。(左の図参照)
 @ 東京大学農学部の東外側(サトウハチロー旧居跡付近)
 A 農学部とエ学部の境(現在地付近)
 B 根津小学校の校庭裏の崖上
言問通り 弥生坂(鉄砲坂) 言問通り 弥生坂(鉄砲坂) 

 かつて、このあたりー帯は「向ヶ岡弥生町」といわれていた。元和年間(1615〜21)の頃から、御三家水戸藩の屋敷(現東大農学部、地震研究所)であった。隣接して、小笠原信濃守の屋敷があり、南隣は加賀藩前田家の屋敷(現東大)であった。
 明治2年(1869)これらの地は明治政府に収公されて大学用地となった。明治5年(1872)には、この周辺に町家が開かれ、向ヶ岡弥生町と名づけられた。その頃、新しい坂道がつけられ、町の名をとって弥生坂と呼ばれた。明治の新坂で、また坂下に幕府鉄砲組の射撃場があったので、鉄砲坂ともいわれた。
 弥生とは、水戸徳川斉昭侯が、文政11年(1828)3月(弥生)に、このあたりの景色を詠んだ歌碑を、屋敷内に建てたからという。
 名にしおふ春に向ふが岡なれば 世にたぐひなき花の影かな
言問通り 弥生坂を下る 言問通り 弥生坂を下る 

下った所が根津一丁目交差点である。
言問通り 根津一丁目交差点で左折、不忍通りへ 言問通り 根津一丁目交差点で左折、不忍通りへ 



 
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